序
終戰後、わが國では、民主々義原則に基く基本的人權の確立ということが大きくとりあげられてきた。このことは、新憲法の中にもはつきりと示されているところである。この基本的人權の一つとして、國民の生存權の保障ということは、極めて重要な内容をなすものである。憲法第二十五條の「健康にして文化的な最低限度の生活」を保障することは、國民の福祉を圖ることを目的とする國家の、當然の責務と考えられるのである。終戰後、社會保障の問題が、にわかに、國民の關心を呼び、重要な課題としてとりあげられるようになったのも、これに由來するものといえよう。又一方國民生活の實相は、次第に立直りつゝありとはいえ、敗戰經濟の深刻なる影響をうけて、極めて窮迫した状態を示しておりこの點からも國民生活の確保はゆるがせにできないものがある。當省においては、國民の保健と福祉増進を圖らなければならない使命に照らし、又一方前述のような觀點からも、社會保障制度の推進に、日夜努力と研究を重ねてきた。生活保護法や兒童福祉法の制定、保健衞生諸施策の推進、その他過般の社會保險制度の改正なども、それへの歩みを物語るものである。しかしながら、近代諸國にみられるような、完全な社會保障制度への途は、限られた資源、インフレその他日本の當面する諸困難や複雉化している現行諸制度との關係もあり、まことに容易ならざるものがあるのである。
このときに當り、連合軍總司令部から、わが國社會保障制度について、勸告があつたことは、まことに意義重大なものがあり、感激に堪えないところである。本書は第一部の實情報告、第二部の勸告及附録の三部からなり、原文二百六十頁にわたる廣汎なもので、現存諸制度の忌憚なき分析批判と勸告がなされている。又その關連するところは、獨り當省行政の各部門にわたるのみでなく、關係各省にも跨り、極めて廣汎で從つて國民生活にも密接なつながりを持つものである。かくて、本書は、これからの、日本社會保障計畫について、一つの羅針盤ともなるべきものであろう。
國民の健康と幸福を念願して仕事をしているわれわれは、國民と共に、すみやかなる社會保障制度の完成をも念願してやまない。そしてこれを文化日本への礎として、民生安定の基盤とも致したい。しかしながら、この制度の完成については、關係各省は勿論、國民各層を代表する各方面からも絶大なる協力と支援がなくては、到底望むことはできない。否、問題の大きく深く複雜であることと、その困難性を豫想するならば國の總力を擧げて實現に邁進しなければ、到底これが完成を期しえないであろう。
この譯書が厚生行政關係者、關係各省は勿論、廣く各方面の有識各位に、社會保障の研究と實踐の資料として役立ち、この完譯の普及を機に綜合的社會保障制度確立要望の氣運が一段と揚されることを希望しつゝ序とする。
昭和二十三年十月
厚生次官 葛西嘉資 .
連合軍最司令部より日本政府への送達書
AG三一九、一(四八、七、一三)PH
SCAPIN五八一二―A
日本政府に對する覺書
主題 日本社會保障に關する調査團報告の件
一、日本政府並びに各種民間團體よりの、社會保障に關する助言と指導要請に基き、その分野に於ける學識經驗を有する人々より成る特別調査團が、調査及び檢討を行ひ、日本國民の爲の適正なる社會保障計畫樹立の助けとなるべき結論並びに勸告の報告を提出する目的をもつて、連合軍最司令官により、日本へ招碑せられたのである。
二、右調査團が提出した報告書の寫しを、茲に日本の現存社會保障制度の改革計畫の樹立並びに實行に際しての、日本國民の參考及び指導の書として授與する。民主々義思想に基き、國の資源の許す範圍に於て、綜合的且つ適切な社會保障制度を保持する事は、日本國民にとり、望ましい目標であると考へる。
三、報告書中、組織機構並びに運營責任の移讓に關する勸告は、この問題に對しての、一方途を示すものである。徹底的究明と實驗に基き、この報告中に述べられたもの並びにその他の方途が、世界の諸方面に於て發展し、成功裡に適用され來つたのである。
四、社會保障實現の具體的方法並びに計畫は、日本の現状にてらし、且つ又日本の社會に於て最も關係を有する人々の立場において、決定せらるべきである。
五、此の計畫の根本的改革の實現の方法に關しては、總司令部關係各部局と日本政府關係各官廳との直接折衝を許可する。
最司令官代理 .
R・M レヴイー .
級副官 陸軍大佐 .
マツカーサー元帥聲明
連合軍・極東派遣軍最司令部
APO 五〇〇
社會保障制度調査團報告書は、日本國民に、社會保障の健全なる基礎を提供するための援助を行ふべく、連合軍・極東派遣軍最司令部關係各部局、並びに日本政府關係各官廳及び係官の、研究・分析のための參考文書として、受納せられた。民主々義思想に基き、國の資源の範圍に於て、日本に廣汎にして且つ適切な社會保障制度を保持する事は、承認せられたる占領目標である。
社會保障制度調査團一行の、好意ある時と勞力との奉仕に對し、謝意を表するものである。きわめて價値ある報告書に對し、連合軍各國よりも感謝するところである。
元帥・ダグラス マツカーサー .
社會保障調査團氏名 .
團長 米合衆國社會保障行政部 .
ウイリアム・エイチ・ワンデル博士 .
米合衆國公衆衞生部 .
バーネツト・エム・デーヴイス博士 .
米合衆國公衆衞生部 .
ジヨセフ・ダブリユウ・マウンテイン博士 .
米合衆國社會保障行政部 .
バーケフ・エス・サンダース博士 .
前米合衆國社會保障行政部 .
フランシス・エイ・ステイトン博士 .
日 次
序論、並びに概要
第一部 現行社會保障制度概觀
A、社會保險制度
一 圖表、及び、概要
二 法律規定に關する考察
a、適用の範圍
b、保險給付
c、徴收金額
d、事務費
三 社會保險運營の分析
a、運營機關
b、政策の樹立
c、權限の委讓並びに運營の監督
d、保險料の徴收
e、記録の蒐集と保存
f、給付の申請の受理、決定及び保險給付支給
g、審査と訴願
b、事務費
B、公共扶助、及び公共事業救濟計畫
一 公共扶助――生活保護法
二 公共事業計畫
C、公衆衞生活動、醫療並びにその施設
一 公衆衞生
a、公衆衞生計畫の性格
1、人 口
2、母性衞生
3、兒童衞生
4、結 核
5、胃腸疾病
6、鼠族昆蟲による疾病
7、性 病
8、榮 養
9、衞生教育
10、衞生試驗施設
b、公衆衞生行政
1、法的基礎
2、地方自治體組織
3、保健所の發展
4、地方廳機構
5、財政的基礎
6、政府の衞生行政機構
二 病院施設
a、施設數及び分布状況
b、利用者
c、施設の種類
d、設備及び運營状況
e、診 療
f、費 用
三 醫療關係從事者
第二部 勸 告
A、社會保障制度
一 總 論
二 健康保險以外の社會保障制度に對する勸告の基礎
a、豫想される統合制度
b、適用範圍
c、社會不安の主たる原因に對處する方法
1、老齡給付
(a)給 付
(b)保險料
(c)積立金
2、廢 疾
(a)給 付
(b)保險料
3、一時的賃金喪失に對する金錢補償
(a)給 付
(b)保險料
4、分娩給付
(a)醫療費
(b)現金手當
(c)現金給付
5、葬祭費
6、扶養家族給付及び家族手當金
7、特別給付の問題
(a)給付の一時的調整
(b)最低給付
8、任意保險
9、その他の問題
三 健康保險
a、序 論
b、總合的計畫案
c、現在の諸問題
1、財政上の諸問題
2、醫師との關係
(a)醫師への報酬
(b)醫師側代表の問題
(c)專門技術の問題
(d)病院の標準
3、一般運營の諸問題
(a)制度運營に對する關心
(b)專門家使用の問題
(c)醫師及び病院への支拂手續き
(d)弘報活動
4、人及び施設の諸問題
(a)病 院
(b)醫師及び齒科醫師
(c)保健婦、看護婦及び助産婦
d、勸 告
1、總 論
2、商工業及び政府被傭者への保護
(a)實施の樣式
(1)地方自治體に於ける樣式
(A)交渉團體
(B)給付の條件
(C)報酬の方法及び比率
(D)病院との協定
(E)醫療機關の職責
(b)財政の問題
(c)保護及び適用の範圍
3、その他の國民への保護
(a)實施の樣式
(b)財政の問題
(c)地方自治體への計畫採用勸獎
四 制度の確立
a、統合制度の利益
1、被保險者への利益
2、事業主への利益
3、醫療從事者への利益
4、政府への利益
b、特殊の問題
1、船員保險
2、失業保險及び勞働者補償
c、機構についての勸告
1、諮問委員會
2、一つの省への責任と權限の委任
(a)組織の變更に對する示唆
3、審査請求機關
4、内部機構
五 社會保險制度の財政問題
a、商工業、及び政府被傭者への社會保險――資格及び給付の樣式
1、老齡給付
2、遺族給付
3、廢疾給付
4、一時的勞働不能給付
5、失業補償
6、醫療給付
b、強制制度の費用概算
c、財政方針
d、積立金問題
e、政府補助……時期及び割當
f、醫療施設への資金投資計畫の爲の方途
1、資金の支出
2、資金問題
3、實施の費用
g、國民健康保險より全國民對象の前拂式計畫へ
B、公衆保健總論並に勸告
一 兒童衞生
二 衞生施設
三 保健婦、看護婦及び助産婦
四 衞生試驗所施設
五 職 員
六 物的設備
七 財源の調整
八 諸制度の定義と評價
C、 病院及び診療施設
一 原 則
a、利用率の低い原因
b、病院の診療と職員
c、病院に於ける醫療の特長
二 勸 告
a・病院は國民に奉仕するといふ認識を深める事
b、基本的計畫の確立
c、公的財源による病院建設
d、經常費の補助
e、醫療内容の改善
f、認可制度に依る病院施設の強行
g、病院施設への適當なる割當
附 録
A、社會保障調査團から諮問を受けた團體の代表的なもの
B、日本社會保險制度調査會報告
C、事務費
D、諸圖表
E、數理的及び統計的附録
序論並びに概要
社會保障立法は、人生に於ける重大災難による處の經濟的打撃から、個人を保護する爲に企圖せられるものである。かゝる災難とは、一時的或ひは恒久的勤勞不能、又は不本意の失業に依る收入喪失、醫療費の負擔、家庭に於ける働き手の喪失、或ひは老齡に依る要扶助等である。かくの如き保護が個人に必要である所以は、何時かゝる損失を蒙むるか豫期する事が出來ないし、又獨力を以て事態に對處する事が出來ないからである。
特に、國家が工業化せられ、生活の道が個人の力に依つて統御し得ない状態になるにつれ、經濟的、政治的、並びに社會的機構の不安を防止し安寧を維持する方法としての社會立法が、極めて必要となつて來るのである。
與論の支持に依る社會保障制度に依り、個人が、滿足し得る程度の生活標準を維持して行く事が出來るならば、政府並びに一般社會に對しての信頼は、一層強められる事になるのである。
社會保障立法は、又、自主性を發揮し企業を盛んならしめるに適切な環境を造り出す効果を持ち、從つて、民主々義の重要な要素となるのである。かゝる立法が、豫期し得ざる出來事に際して個人を保護するが故に、個人自らの勤勞、或ひは企業の結果が保護せられる事となり、平等の立場に立つて家事し、勤勉に努力し、自らの能力と腕前を充分に發揮する事は、無駄ではないものだと感じる樣になるのである。
安定せる政府と經濟的混亂に依る不安の防止との關係は、新日本憲法第二十五條に認められ、かく述べられてゐる。「すべて國民は、健康で文化的な最低限度の生活を營む權利を有する。國はすべての生活部面について社會福祉、社會保障及び公衆衞生の向上及び増進につとめなければならない。」
日本に於ける社會保障制度は、數十年に亘り發展し、この國の經濟的並びに社會的組織の重要なる一部となつてゐるのである。一九四四年には全人口の三分の二以上が、何等かの社會保險制度に依って保護せられ、一般開業醫の八十%が保險醫であつた。病院における病床數の十%は保險團體が所有するか、又は、運營してゐる病院に屬するものであつた。一九四六年には、十七億圓以上のものが、一時的並びに恒久的勤勞不能の爲とに支拂はれ、二億五千萬圓以上が養老年金並びに遺家族手當として支拂はれたのである。
終戰後に於ては、生産と職業の大量減少を生じ、かゝる社會保險制度の適用範圍と、それに基く給付金額の急激な縮小を招來する樣になった。然しながら、諸種の點から考へて見て、この制度はその後に於ても亦、進展を遂げ來つたのである。その最も重要なものは、一九四六年十月の生活保護法制定であつて、これに依る現在の給付は決して充分ではないが、世界に於て最も進歩せるものと考へ得べき、綜合的無差別の扶助組織を供與するものなのである。個々の社會保險制度についても、審査機關又は諮問審議會の設置等により調整が行はれて來た。船員保險制度の適用範圍は倍加せられ、事務處理の諸面に於ての改善も成し遂げられた。更に、議會に於ては日下、失業手當並びに保險制度の立法が考慮せられつゝあるのである。(譯註(一)參照)
然しながら、社會保險制度が、急速に全面的再檢討を要する事は、占領當初より明白な事であつたのであり、更に、此の國に於けるインフレーシヨンの昂進が一層、その必要を切實ならしめて來たのである。社會保障制度は、數十年の期間に亘つて確立せられ、その結果による社會保險の現存形態は、或る點に於ては重複せる保護を與へ、或る種の保險に於ては矛盾、撞着の結果收支つぐのはず、他種保險に於ては給付金支出に比して過剩收入をもたらしたのである。更に、保險制度に依る醫療給付の發展は、公的・私的責任の混亂と、醫療機關の非經濟的使用を招來する結果ともなつた。全般に亘つて、非民主的制度に依り、與論に依るに非ずして政府の權威に依り運營せられ來つた。之等の制度を、事務機構並びに本質的給付の面から再編成する事に依つて、現存せる社會保險諸施設をより有効に使用すると共に、日本經濟を健全なる基礎に置く事の一助ともなり、且つ又、民主々義制度を確立する結果ともなるであらう事は明らかである。
終戰後に於ける經濟状態、特に驚くべきインフレーシヨンは、一層重大な問題を含んでゐる。インフレーシヨンの眞の結果は、相殺的効果を持つものであつて、賃金、給與は物價と共に上り、從つて給與に基く保險收入と、最新賃金に比例して決定せられる給與も亦物價と共に騰るのである。然しながら一方に於ては、かゝる効果を限定する諸要素が存在してゐるのである。即ち、賃金は物價程に急速に飛躍的に上るものではない。かつ又、保險料を決定する最月額賃金が法律に依つて制限せられてゐるのであつて、厚生年金に於ては六百圓、健康保險に於ては二千圓、船員保險に於ては八千圓に引き上げられ、失業保險に對しては五千百圓が提案せられてゐる。給付の額を決定するに用ひられる賃金表が、最額に於て押へられてゐる爲に、保險料或ひは給付内容に關しての金額増加を、充分に反映し得ない結果をもたらしてゐるのである。
インフレーシヨンは、賃金水準がはるかに低い時代を基準とした給付の妥當性について、大きな問題を投げてゐるのである。養老、廢疾年金の形態に於ける場合が之であつて、現在起りつゝあり又將來も起るであらうところの給付金額の増加調整が、必然的に、これまでの積立金をして、増大する給付責任を果すに全く不適當なものとしてしまつてゐるのである。事實、インフレーシヨンが停止せられない限り、引き續いての積立金の蓄積は大きな疑問として再考せらるべきである。
物價の昂騰は醫療給付に依る社會保險制度、特に、國民健康保險制度の如く、保險收入が賃金と關係のないものに、直接の影響をもたらして居るのである。醫師の要求する支拂率の急騰、(藥品の缺乏と、入手し得る材料の價格昂騰が理由となつて)に對して、組合員側に於て必要な程度にまで保險料の引き上げを行ふ能力が缺けたり、或ひはやりたがらなかつたりする事の爲に、多くの國民健康保險組合が活動不能状態に陷つた。醫療給付のより經濟的方法、即ち、組合が所有又は管理する診療所による途は、建築資材及び諸備品の缺乏と價格の爲に實行が困難であつた。此のインフレーシヨンは、通常の政府補助の面に於ても亦、困難を引き起してゐるのである。即ち、昂騰する物價が、支出に必要な程度にまで政府の歳入を保持する事を困難ならしめ、納税者側の、所特に對するより率な課税への反對を増大せしめ、且つ亦、それ自身インフレ的傾向である赤字豫算の危險を、増大する事となつたのである。
占額初期に於て、(一)現存せる社會保障制度を強化且つ合理化し、健全なる經濟的基礎の上に於て經濟を消耗せしめず、インフレーシヨンによつて起る變動に耐へしめ、(二)社會保障による保護を、必要且つ適當と思はれる分野と人々へと擴張すべく指導し、(三)特に半官團體たる日本醫療團の廢止の必要に鑑み、公的病院政策を展開すべく指導し、(四)全國民に對し醫療給付を行ふべく、醫療施設の最度利用を計らしめ、(五)健康保險の運營に當つて、醫療從事者を組織化する爲、適當なる機能を發展せしめる爲に、最司令部の政策を決定する必要がある事が明白となつたのである。
一九四六年初期に、最司令官に對する勞働諮問委員會が、日本に於ける社會保險制度の調査を行つた。同年五月付のその報告書によると、(一)現下の如きインフレーシヨン時代に於ても、社會保險制度を保持し、(二)此の制度の特徴たる醫療給付を確保すべき健康保險並びに國民健康保險に對して、特別の措置を講じ、(三)現在適用外に在る人々にまで、範圍を擴大する事の研究をなす爲に、何等かの方途を講ずべき事を勸告してゐる。同委員會は、現存せる制度に於て協力調整が缺如し、この問題は根本的改革に依つてのみ効果をあげ得る事を指摘し、社會保險の徹底的改革が可能であり且つ又行はれねばならぬ事、更に、かゝる改革を企畫する組織をたゞちに確立すべき事を具申したのである。
時を同じくして、日本政府により勞働者、事業主、指導的大學教授並びに政府官吏を委員とする社會保險制度調査會(譯註(二)參照)が設立せられたのであつた。此の調査會は日本に於ける保險制度を調査研究し、一九四七年初期に此の國の社會保險制度の再編成と範圍の擴張とを提案した。此の提案は、その後修正を加へられて一九四七年十月に公表せられたのである。同委員會による此の提案は、全世界の民主的國家に於ける最近五ケ年の、社會保障制度の發展情勢に強い影響を受けて居るものである。
一九四七年三月、日本政府は醫療制度審議會(譯註(三)參照)を設置し、醫療並びに醫學教育の改善を勸告せし日本醫療團の財産の利用と處分方法に關しての案を浸出せしめ、更に健康保險の改善に必要なる研究をも行はしめたのであつた。
昨年度に於て、醫療費の連續的昂騰と、經濟的獨立の弱少保險單位の當然の缺陷とにより、國民健康保險組合一萬中約四千が醫療給付を中止し、あらゆる保險制度の積立金は致命的打撃を受けて、當初の機能を全く喪失するに至つた。かくして、現存制度を改革し、被保險者に醫療給付を確保し、廢疾又は收入喪失の場合、老齡要扶助の場合、又は働き手の喪失の場合に於ての現金給付を保障せられる事が廣く要望せられて來たのである。
以上の如き状況を念頭に置いて、本社會保障調査團の來訪が考慮せられねばならぬ。本調査團は、問題を分析し勸告書作成の爲に、近々六十日を有したに過ぎない。然し乍ら、公衆衞生福祉部並びに經濟科學部勞働課によつてすでになされたる調査、並びに日本側委員會の手による研究から多くの便宜を得たのである。本調査團は、東京附近並びに京都、神戸地區に於て、各々農村と都市との代表的保險醫療施設の活動形態を視察する事が出來た。更に、事業主、被傭者、醫師、組合連合會、社會保險制度調査會、醫療制度審議會の代表者達とも懇談を行つた。此の故に本調査團は、現存せる社會保險制度の運營に閲し又それに關しての各種意見についても、入手し得る限りの材料を得たと考へるのである。
本調査團は、勸告書作成に當り、二つの相反する思想に強い影響を受けたのである。一面に於ては、日本はほとんどあらゆる形態の社會保障について長期間の經驗を有して居り、今や、國民に最低限度の生活と福祉とを保障する爲に、民主々義的態度を以て、これ等の制度を充分に利用せんとする熱意を示してゐるのである。ところが他面に於ては、過去の經驗に於て根本的弱點を暴露し、特に、いかなる社會保險制度に於てもその成功に缺くべからざる事務運營關係に缺點を表はしたのである。
此の事と、現下の日本が當面する物質的、經濟的並びに技術的資源の状態とを思ひ合せるならば、社會保障制度の健全なる運營の展開と改革との責務を擔ふた日本政府が、熟慮せる上での行動をとるべく、四圍より促がされてゐる状態にある事が明白である。
譯註
(一)失業手當法及び失業保險法は、第一回國會において成立をみ、いづれも、昭和二十二年十二月一日附により、前者は、昭和二十二年法律第一四五號、後者は、同第一四六號をもつて公布せられ、同年十一月一日に遡つて適用せられた。
(二)社會保險制度調査會は、昭和二十一年三月二十九日附勅令第一六七號による官制に基き、設置せられたものであつて、會長一名、及び委員三十名以内を、厚生大臣の奏請に依り内閣に於て命ずるものであり、厚生大臣の監督に屬し、その諮問に應じて社會保險に關する事項を調査審議する。
(三)醫療制度審議會は、昭和二十一年四月十一日、厚生大臣により設置せられ、會長に厚生大臣、委員に醫界、國會、報導機關、各代表並びに學識經驗者約五十名をもつて組織せられた。その後、國會、報導機關代表は辭退せられ、委員數も三十數名に減少するに至つた。
勸告の概要
社會保障制度調査團の勸告は、次の如く要約せられるものである。
一、工業、商業、船員並びに政府職員等の如く、老齡、遺族、勤勞不能(並びに失業)による賃金喪失に對する現行強制加入保險制度の適用を受ける人々に對しては、一本の組織による制度を作る事。
a 老齡給付に關しては、六十歳(女子は出來得べくば五十五歳)よりとし、十年以上の被保險者に對し、從來の賃金、勤續年數、扶養家族數に應じて給付する事。現在給付中の恩給は、新制度に組み代へられるべき事。現制度に於て、認められてゐる勤務年數は、新制度による資格決定の際にそのまま用ひられる事。現存の共濟組合或ひは船員保險制度に依る給付は、新制度に引き繼がれる建前であるので、その積立金も引繼ぎを行ふ事。
b 廢疾給付に關しては、公傷病の場合は適用範圍の資格制限の必要はない。公傷病以外の場合は、老齡給付の場合と同樣か、或ひはそれ以下の勤續年數の場合は最近まで勞働に從事して居たことを證明し得るときにのみ給付する。更に、扶養家族への手當の給付をも行ふ。
c 遺族給付に關しては、公傷病の場合は、勤續年數に關係なく行ふが、公傷病以外による死亡の場合は、廢疾保險給付と同等の資格の場合に與へる事。
d 勤勞不能或ひは失業による一時的賃金喪失に對する給付に關しては、現に勞務に從事する者に對して支拂ふ事。公傷病外の勤勞不能と失業の場合は同率とする事。公傷病による勤勞不能に對しては、率の給付を行ふ。家族給付をも行ふ事。勤勞婦人の場合は、出産に依る賃金喪失の補償をも行ふ事。
e 被保險者とその家族に對する醫療に關しては、全額給付を行ふ。出産に伴ふ臨時出費に對しての現金給付による出産手當金を勞務者の妻及び勤勞婦人に給付する事。現行の組合による運營方法を、費用の平均化を計る爲に基金をプール化することに依り、經濟的に強化すると共に、組合をして醫師及び醫療施設との契約を爲さしむるために、より多くの權限を與へ、政府の監督を強化し、政府管掌の保險事務を地方移讓し、醫師をして保險醫たる事の自由を付與する等の措置により事務運營を強化すべき事。現行の一點單價報酬制度に代る可き醫師への支拂ひ方法を充分に研究すべき事。
五人以下の勞務者による事業内從事者も、五人以上の勞務者による事業に於けるそれと同樣の保護を受くべき事。
扶養家族が、一人の働き手に依存するところから來る經濟的不安定は現在に於ては、日本の産業界に於ける給與組織によると、家族手當を一般給與に組み入れる事によつて解決を計つてゐる。しかし乍らかゝる手當は給與から除外し、政府が同一基準による家族手當支給の責任を負ふ可き事を提議する。かゝる案を採用する事によつて、保險金受取人に拂はるべき家族給付は被傭者に對する家族手當と一致したものでなければならぬ。
以上に述べた如き保險に關しては、一本の組織のもとに、一種の保障税を使用者、被傭者双方から取り、事業主も被傭者もたゞ一つの事務所と交渉をすれば事足りる樣にし、形式手續きを簡素化し、事務費の削減を計らなければならない。しかし乍ら、現存の又は將來出來る任意組合が、基本的計畫に依る給付に付け加へての現金給付を行ふ事を、禁止したり勸告したりする可きだと云ふのではない。
かゝる計畫による被保險者は約七百五十萬である。その内譯は五百二十萬の商工業從事者、二百三十萬の官吏並びに官營事業從事者である。被保險者の家族並びに遺族への給付をも含む事であるから、保護を受ける總人員は、約二千五百萬人と考へられる。
二、現在強制社會保險制度の對象とならず、前拂ひ方式による醫療給付の保護――大部分任意的基礎の下に――を受けつゝある人々に對しては、地方廳、市町村の決議に基き現行制度を強化すべき事。
a 他種の健康保險制度の適用を受けざる人々全部を包含し得る樣、投票により議決を行ふ。
b 保險の原理適用を可能ならしむる爲、多數の人々を參加せしめる。
c 全額醫療給付をなす樣にし、被保險者個人の支出をなさしめない樣にする。
d 給付に對しての正當な支拂ひをなし得る如き保險收入の途を講じる。
e 地方廳の公衆衞生活動を、市町村の前拂ひ式保險制度運營に織り込ませて行く。
f かゝる市町村の健康保險制度に對しては、地方負擔の割合に應じて國庫補助を醫療給付費の一部として行ひ、その場合に個人收入を基準とする各地方の富源とにらみ合せて行ふ事。公的醫療機關の設立費並びに經常費として與へられる資金は政府補助の一部と見なさるべき事。
三、全日本國民に對し、特に現行の前拂式制度による醫療制度の被保險者に對しては
a 病院の公的奉仕の性格を認識せしめる事。
b 單一の綜合的計畫により全國的病院組織を確立する事。
c 病院の設立費用は、公金により、主として國庫負擔となす事。然し乍ら、出來得る限り地方自治を許容し、所在地の必要に應じての施設を作る樣獎勵する事。
d 病院の經常費の大部分は、公金によりまかなはるべき事。
e 病院の最方針は、醫療給付改善を目的とすべき事。
f 認可制度により、病院の標準をめる事。
g 適當な食糧割當を、病院に對し行ふ事。
h 漸進的に、助産活動を公共團體による機能として 取り入れて行く事。
i 國の公衆衞生活動は、政府、地方廳、市町村を通じての一貫せる行政により運營せられるべきである。然し乍ら、かゝる種類の活動は健康保險活動と充分の協力により行はれなければならない。適當と思はれる場合には、公衆衞生活動に從事する保健婦をして市町村健康保險制度に參加せしめる事も出來るであらう。たゞしかゝる保健婦の人事を地方廳當事者が行ふ事によつて、公衆衞生計畫遂行に一貫性を持たせなければならない。
四、社會保險による保護を受けてゐない者、或ひは受けてゐても充分でない者に對して、生活保護法による無差別扶助は適當である。此の制度を寸斷する如き事は、考慮すべきでない。
五、事務處理機構が改善せられねばならない。
a 國會並びに責任ある政府行政機關とに對して、社會保障に關しての企畫、政策決定、法律制定の面に於ての勸告をなす爲に、内閣と同列の諮問機關を設置する事。
b 日本に於ける社會保障制度運營に關しても全責任と權限とを、國會が政府内の一省に移讓する事。此の場合厚生省を選ぶ事が最も適當と考へられる。かゝる移讓に際しては、民主的方式に基く地方分散方式を採り、地方諮問機關を活用する樣指示すべき事。更に、省内に於ける全社會保障制度機能が統一せらるゝ樣指導する事。運營上の全責任と最後的權能は厚生省の手に保持すべき事。
c 半司法機關的性格の獨立審査機關を確立し、社會保險適用に關しての決定を慾する場合は、その當事者からの訴願の途を開き、更に、最後決定に關しては正規の法廷への上訴の途をも開く事。
かゝる勸告とその基礎づけとなるべき諸點とは、本報告書の第二部に詳述せられてある。第一部は現行の社會保障制度、醫療、公衆衞生活動並びにそれ等に關連する諸機關に關して述べられてゐるものである。
此の報告書の執筆に際しては、本調査團は公衆衞生福祉部の各課特に社會保障課から貴重なる援助と建設的批判とを受けた。社會保障課は本報告書の第一部の大部分を用意したものである。
第 一 部 現行社會保障制度概觀
十九世紀の後半、近代國家としての日本の出現と共に、社會保障の面を包含しての數多くの西洋の制度が、急激に取入れられたのである。特に、社會保障の面についての受入れ事實は、外國の法文をたゞ飜譯して出來上つただけのこの國の法律に、極めてよく反映してゐる。しかもその法律は、基本理念の理解なしにいきなり採用せられ實施されたものなのである。かゝるが故に、本報告書の勸告に關しての參照根據をしめすと共に、外國の社會保障制度との比較をもなし得るため、以下に法規の概要並びにその運營實状につき記すこととする。
現行制度の概要は次の如くである。
A 社會保險制度
一、適用範圍、保險給付、酵出額及事務費に關する
法規規定、機構、各制度に關する補充的説明、及
びあたへられる保護の一覽表教程。
二、法律規定に關する考察。
三、社會保險運營状況の分析。
B 公共扶助及失業救濟制度。
一、公共扶助――生活保護法。
二、公共事業。
C 公衆衞生活動及び醫療並に醫療機關
A 社會保險制度
社會保險に關する法的措置の最も初期の記録は、官吏に對する恩給制度を始めた、明治四年の勅令であるやうに思はれる。最初、公務疾病に重點をおいた社會保險保護は、明治三十八年の鑛業法、明治四十四年の工場法、明治四十年の鐵道共濟組合制定勅令第一二七號、明治三十二年の船員法及び商法などの勅令、法律によつて、現在の法的機構の基礎となつた初期の立法をつくり、次第に廣く一般國民の各層にまで擴充されて行つたのである。
過去に於ては、すべての社會保險立法は、各省を通じ内閣に於て行はれた。各省は、その關係層の特殊利益を代表して、それ自體に特有な要求と、明確な獨特の必要とに應ずるための法規を提案し、その施行にあたつては、各省自體がこれを行ふか、または、これらの特殊利益を代表する各種の民間及び半官團體に委託した。一般國民を代表する政府、或ひはその組織分子としての各省といふ觀念は、さらに存在してなかつたのである。
内閣は、かゝる機能を遂行すべき當然の機關であつたにもかゝわらず、社會保險に關しては、綜合、調整はほとんど行はなかつたのである。かくて同じ種類の災害に對する取扱ひ細則、並びに各種被保險者層に對する保護に大きな差異が生じた。行政的責任及び機能についても、政府機關の中央及び地方にまたがり、數千の半官及び民間團體、醫師團體、及び多數の諮問及び調査委員會に分散せられ、それに對する調整機關は皆無の有樣であつたのである。
一、図表及概要
附属図表により‥‥‥‥‥‥
第 二 部 勸 告 書
A 社會保障制度
一、 總 論
日本人は、終戰直後の時期に於て、社會保障制度樹立にあたり、二つの重要な問題を考慮せざるを得なかつたのである。即ち、一つは國全體としての社會保障制度の目標は何であるか、即ち、如何なる人々にどのやうな保障を與へる可きかといふこと、もう一つは、その目標に速かに達するためには、どういふ方法が日本の現状に照して實行可能であるかといふ事である。
民主々義諸國に於ける社會保障思想の現段階に於ては、第一の問題に對する解答は簡單である。缺乏からの自由が、世界中の自由人の基本的目標である。そして、その目標に達し得る成功の程度が、その國家の健全性のはかりとなるのである。更に具體的に云ふならば、健全な經濟組織は、働き得る者によき仕事を與へ、老人、失業者、傷痍者、幼少年者に、生活の保護を與へる事によつて、凡ての人に對し、生命と健康を維持するに必要な途を供給すべきであるといふ事が、一般に一致してゐる意見なのである。
社會保險制度調査會の報告會は、民主々義の線に沿ふて、日本にとつての適當な社會保障制度の素描を行つてゐるものである。この報告書が日本に於ける種々の社會層の意見を代表して居り、而も全員一致で可決せられ、且亦、日本人への缺乏に對する保障を明白な目的としてゐる點に於て、極めて意義が深いのである。
この報告書は、老齡、廢疾、失業、疾病、傷害に對する保險、出産に要する諸出費、兒童の最低生活保護、葬祭費及び寡婦、孤兒を對象とする遺族手當等を網羅する一大國家的社會保障制度を提案してゐるのである。それに依れば國民は一人殘らず、全額の醫療給付を受ける。更にこの案に依ると、受給者の前收入に關係なく、均一の現金給付をも考へて居る。業務に歸因する傷害及び疾病に付ては、別個の制度に依る樣な考へ方になつてつくられてゐる。この社會保障案の財政面に就いては何等特に論及されてゐないが、委員達の考へてゐるところは、使用主、被庸着からの保險料金と自家營業のもので保險の受益者からの保險料金――收入に比例した掛金――を含む一つの幅の廣い收入源をもつといふ點である。保險給付金の大部分と、事務費とは、一般會計の部から賄はれる樣提案されてゐる。現在ある種々の制度の凡ては、一つの包括的な制度に綜合されるべきであると委員達は提唱したのである。(報告書は附録參照。)
調査會の報告書に述べられてゐる樣に目標が確立せられると、第二の、適當な社會保障制度を樹立するためには、現在如何なる方法が實行可能であるかといふ、極めて難かしい問題が起るのである。人竝みの健康な生活をする爲めの最低限度の保護についての觀念が明確にせられたとしても、今直ちに、その最低限度の線まで引上げる方途はここにあると、指摘する事すら大變な仕事である。然しながら、日本人自身も、又日本の經濟的、社會的現状を織るものは誰でも、制約せられた部分的なものから着手しなければならないといふ事は認めてゐる。日本側の報告書自身もその案の實行については、部分的に行ひ、日本の國家經濟の現状、長期經濟復興再建計畫及び財政の負擔能力の觀點から考慮せられねばならぬと述べてゐる。調査會は、事務運營の問題に付ては、具體的な案を示してゐない。また、現在の社會保險制度を統合して單一制度にする方法に付ても、何等格別の考慮を拂つてゐない。ただ給與組織、特に家族手當の問題が、社會保障案實施の先決條件として合理化されねばならない點に注意をむけてゐる。更に、醫療とその施設の組織と運營の問題が、廣範圍な制度の運營に於て重要なものである事をも強調してゐる。
基本的制約要素。
現在の日本の情勢下に於ては、かゝる計畫の即時採用を制約する數個の要素が存在して居るのである。從つて、具體的方途への勸告を行ふ前に、これらの要素について考慮する事が極めて肝要となつて來る。これを列擧するならば次の如きものである。(一)生産の不振、(二)通貨膨脹及び其の結果より生じた將來に對する不安に原因する價値關係の瓦解、(三)剖現在行はれつゝある行政組織の大改革、(四)現行保險制度の危機状態。この樣な要素の一つ一つについて充分の檢討を行ふことは、社會保障についてのよりよき制度を樹立するために、直ちに採らる可き適切な方法を決定する上に影響を及ぼすので、極めて重要な事である。
收入の低減と生産の不振。
國民所得の大體の水準に就ての信頼すべき資料が現在無いが、水準が低いといふ事は疑ひがない。昭和二十二年九月現在の調査に基づく生産量は、昭和五年――九年に至る平均水準の約四割五分であつた。賃金は昭和五年――九年に至る平均水準の五割にも過ぎないと見積られる。その算出資料の大半は非常に大ざつばなものであるが、その資料の執れも、日本經濟は現在やうやく糊口をしのぐ水準にあるといふ事を強調してゐる。深酷な生活の危機は米國からの援助によつてのみ回避して來たのである。それ處か、過去一カ年半に亘つて大いに改善されて來た。將來も一層の改善を期待し待るのであるが、これ以上の改善はその歩みが非常に漸進的になるであらう。
廣範圍の社會保障をその國民に適用し得る國の能力は、適度の生産力と收入が水準に到達し、更にそれを維持し得る國の能力にかゝつてゐるのである。例へば、英國に於ける制度は、英國經濟が少くとも戰前と同程度の生産力を有し得る樣になり、國民所得に於ても將來一段の上昇を豫期して、その前提の上に立つてゐるのである。適切な配分が行はれ、國民のすべてに妥當な生活の保障を與へ得る程の國の所得がある時にこそ、始めて社會保險制度が危險率の共同負擔によつて、全國民に適當な保障を與へる最も滿足すべき制度となるのである。
これと反對に、若し國民經濟が辛うじて生きて行く程度に近い時は、經濟危機に際して保護される權利といふ原則に基づいて出來た社會保險は、その目的を到底有効に果し得ないであろう。病院中又は失職中に喪失した賃金の補償として支拂はれる保險給付は、受益者たる勞働者が、その日暮しの程度の賃金を得てゐる場合には、到底生活を支へ得る額には達しないのである。この事は、保險給付金は以前に得てゐた賃金を基礎にしてのパーセンテージによつて定める習慣なので、その給付金は將來よい仕事のあつた時によろこんで働きに復歸する爲の獎勵となる程度の金額であつて賃金全額より少いわけである。そこで必要に應じての救濟制度からの保護金に依つて、不充分な保險給付を補ふ必要が起つて來る。一方、收入を失つた場合には保險制度の下に給付を受けられる資格のある者に凡て權利として與へられる事になると、大抵の場合他に頼りにする財源をもつてゐる人の所にまで支給される事がある。最低限の經濟に依り賄はれてゐる樣な現代に於ては、最低生活以下に屬する個人或ひは家族の必要度を調査し、その實際の要求に基いて行ふ救濟制度に重點をおく方が必要な事である。
然し乍ら、かく述べたからといつて、現存の種々の保護形態を持續又は強化する必要が無いと云ふ意味ではない。日本の生産力は、究極に於ては戰前の水準と同樣にまで恢復するであらうし、以前には生産力の大きな部分が軍需工業部門に向けられてゐた事實を考へれば、個人の純收入が戰前よりも卻つて多くなると期待しても間違ひではない筈である。かくして再び、收入と生活費との間に餘裕が生じて來る。この樣な將來に對する見通しを持つてゐるからには、今は非常の事態であるからといつて、長年に捗る立法的、行政的努力に依つてかち得た社會保險の進歩發達を犧牲にしてしまふとか、或ひは、被保險者の、社會保險に依つて保障されてゐるといふ安堵感を、おぴやかす如きは、賢明な策とは云ひ難いであらう。
現在の經濟状態より必然的に起る社會保障制度の擴充に對する制約は、現金給付にのみ適用されるものである點にも、注目す可きである。即ち醫療給付、或ひは醫療費支拂ひの計畫にはかゝる制約は及ぼされないといふ事である。醫療問題の明確な性格については、別に他章に於て論述せられるであらう。
生産力の低下が、社會保險による保護内容に全面的制約をなす一方、政府の收支豫算の現状からも、一層はつきりした制約を受けるのである。一般會計から相當額の政府支出を受けて運用される綜合的社會保障制度に關しての理論の當否は別として、實際に、果して必要な歳入を滿たすに充分な額まで徴税財源を求め得るかどうかは大きな問題である。
通貨膨脹問題。
社會保險制度の滿足な運營を期する爲には、かなりの程度の經濟安定がなくてはならない。物價と生活費に於けるインフレーションの勢ひは、今迄の就職中に待た收入に基づいて算定せられる保險給付を、無意義なものにしてしまふ。此の樣な算定によつて、後になつてなされる給付は、基礎期間と給付支給期間との間に於ける圓貨の價値の下落のために、殆んど購買力を持たなくなる。現存の産業從事者及び官公吏の保險制度が、かゝる貨幣價値下落に因る窮境に惱んでゐるのである。
かゝる經濟的現状にあつて、組織的數理的基礎に基づく保障制度を賄なつて行く事は、實状に即してゐるとはいへない。短期變動は、失業保險及び一時廢疾保險の樣な現行の保險制度に對し上述の樣な問題をひき起してゐるが、長期計畫による社會保險の經營は、更に重大な問題を捏起するのである。政府職員を對象とする共濟組合の場合とか、厚生年金保險の下に給付を期待して蓄積された準備金等は、保險保護の目的を達するには不適當になつてしまつてゐるのである。從つて、上昇した賃金と物價の水準に合致するやうに、保險給付額の引上げ調整が行はれなければならない。處で、そうなると、現在の積立金の價値が非常に少ないものになつて來る。かゝる情勢下にあつて積立基金にょる方式の保險制度を、運營して行く事については、甚だ疑がはしいのである。
政府行政機構改革。
終戰以來、廣範圍にわたる政府機構の改革が行はれて來た。權力と權威は天皇から國民へと流れると云ふ基本的觀念を捨てて、究極の權威は國民にあると云ふ原則を以て代へるために、廣範圍にわたる改革が、中央官廳、地方公共團體の行政組織及び運營の上になされつゝあるのである。司令部は地方自治の發達を促進せしめ、中央政府の責任と活動を地方に分散し發展せしめる事を獎勵して來た。かくの如くして行はれる改革のめざす、政府に對する觀念の變化に就き説明する事は、仲々むづかしい事なのである。更に地方中央政府を通じての必要な再教育、再調整の仕事に關しての理解をつたへる事も、極めてむづかしいことであるが、改革が必要であるといふ事は、日本人と話をするならば一寸接しただけでも明らかなことである。此の事は、社會保障制度の廣範圍な改革を行ふ時期につき、特に大規模な綜合包括的な適用範圍による保險制度の樹立の時期について、愼重に考慮する必要を物語つてゐるのである。若しも此の事業が崩壞すべきでなく、且つ其の努力を無効にするやうなものでないとすれば、行政的なカと安定とを必要とするが如き程度に於て主要なる調整及び擴張が全行政機構について加へらるべきである。
現行の制度の状態。
現在日本に行はれてゐる社會保險制度が、若ししつかりとした基礎の上に樹てられてゐたとするならば、完全な制度に向つて良いスタートをなしてゐたであらう。不幸にして健全な基礎に立つてゐない現状である。昭和十六年施行の厚生年金保險法は、老齡及び商工業勞働者の老齡と廢疾の長期保險について規定を定めて居るものである。然し乍ら今まで述べて來た樣な通貨膨脹が財政的基礎を薄弱化してしまつたので、現在は雇主も被保險者も殆んど此の制度を信用して居ない状態なのである。從つて、政府年金及び共濟組合に關しての制度は、その當初の目的を達せさせる爲には、大きな調整を必要としてゐるのである。健康保險、特に政府管掌の部分は、被保險者に對してその目的とする保護を與へては居ないのである。國民健康保險に於ては、事態はもつと惡化してゐる。一方の國民健康保險組合の大體四割が活動を中止してゐる。活發にやつてきた組合は、大部分が診療所を設立して安い醫療費で運營出來てゐる爲なのである。これ等の組合のあるものは、最初支拂はんと企圖した醫療費の半分以下を與へ得るに過ぎない。
現行の制度にいろいろの缺點があるのに加へて、目下國會に於て審議中の失業保險制度を、確固とした運營の見通しの基礎の上に設立するといふ事、更に、健康保險及び厚生年金保險の中にある業務傷病に關する保險規定を、新らしい勞働者災害補償保險により、勞働者の補償保險行政に、移管するといふ事なども、極めてむづかしい問題である。現存の斷片的制度から、一つの秩序だつた組織を引き出すといふ事は、それ自體、政府にとつて消化し切れない程の大きな仕事なのである。
二、健康保險以外の社會保障制度に對する勸告の基礎
前述の根本情勢よりして強く考へられる處は、現存の保險制度が目的としてゐる保護を完成するための効果的な組織と、事務運營の體勢とをととのへる事が、直ちになさるべき方策であるといふ事である。この目標は日本の調査會による目標と、實質的には差異がないやうである。調査會の報告を精讀すると明らかなやうに、その提案は効果的に實施されるとするならば日本人に社會保障の面に於てただちに現行の制度を擴張する――後述の醫療費.註.の問題を除いては、――のではないといふのである。然し乍ら、現行制度の合理化と改善とは、時と事情の許す限り、且つ日本國民が希望する限り、將來の發展の基礎を成す結果を齎す爲に、なさるべき根本事なのである。かゝる目的をもつて、企畫と立法に關しての基礎となるべき論議を展開し、左の如く勸告をなすのである。
註、本報告書第一部の現行制度概要と附録B調査會報告書の第一段階を比較せよ。
a、豫想される統合制度
現存の強制保險制度は、‥‥‥‥‥‥