ひとりごとのつまったかみぶくろ


おばあちゃんの介護



 私の母方祖母…ここではおばあちゃんと記すことにします…が、1990年5月19日、永眠しました。享年81歳でした。

 おばあちゃんは、若き日、先に他界したおじいちゃんと夫婦2人で、古紙くず鉄回収の会社を興しました。おばあちゃんは、私の母であるところの娘をはじめ、娘3人、息子3人をもうけました。その娘、息子たちが成人し、結婚し、巣立った後は、その兄弟姉妹は県下ばらばらに散っていきました。おばあちゃんは長男夫婦と同居です。その後は、正月やお盆、その他の行事の日におばあちゃんの家に集い、孫の私たちもおばあちゃんのお年玉やお駄賃を目当てに、また、いとこたちに会えるのがうれしくって、おばあちゃんの家に行ける日を楽しみにしていたものです。そんなおばあちゃんのことを、私たちは「名古屋のおばあちゃん」と呼んでいました。

 私は、22歳で学校を出ましたが、その折の就職難のために、その後4年間、冷や飯を喰らうことになりました。その期間中の一時期をおばあちゃんの会社で使ってもらいました。体中がほこりと油で汚れる仕事でした。トラックを乗り回したりもしました。アルバイトの身ながら、おばあちゃんは私に正社員以上の給料を出してくれました。「このことはほかの人には内緒だよ」と口止めされましたが。そのうちに今の仕事の職員採用が決まり、その時おばあちゃんは「地獄から天国だね」と祝ってくれました。

 そこをやめた後は、また以前のように、おばあちゃんの家には正月などの時にしか行かなくなりました。

 そうしたある日、おばあちゃんの様子がおかしい、との話が伝わりました。物忘れがひどくなって、おかしな行動をする、というのです。それが日増しにひどくなっていくとのことでした。診断の結果、アルツハイマーとのことでした。おばあちゃんをどうしよう…母の兄弟姉妹全員で話し合いがもたれました。入院なんかさせまじ、と世話は長男夫婦だけに任せるのではなく、兄弟姉妹全員で世話をしていこうということになりました。私の母は週に2日、おばあちゃんの世話の当番ということになりました。下の始末や食事の介助、話相手になったり散歩に連れていくということが主な仕事とのことです。おばあちゃんの家は、私の今の職場への通勤経路の近くにあり、母の出勤?で私と同じ電車に乗り合わせるということも時々ありました。

 私が婚約した時、おばあちゃんに報告に行きました。おばあちゃんは床に横になっていました。私を見て、「この子はいい子だ、いい子だ」とおばあちゃんは言ってくれました。横にいた叔父さんが「この子って、この人誰?」と問うと、「・・・、そーだ、せーちゃんだ。忘れるわけないでしょ。せーちゃんはいい子だ、いい子だ」とおばあちゃんは言ってくれました。その後の結婚式の日、ささえられながらもおばあちゃんは式場まで来てくれました。

 それからしばらくたったある日、おばあちゃんが骨折して入院したというので、見舞いに行きました。おばあちゃんはベッドの上から、私を見るなり、「この人誰だね」と問いました。私の「和枝の息子です」のことばで、やっと納得してもらえました。横では叔母さんが涙を流していました。

 ある日、用事でおばあちゃんの家を訪ねた時、ちょうどおばあちゃんが散歩に出掛けるところでした。私も一緒について行きました。

 おばあちゃんは、おばあちゃんの娘と息子、そしてその家族の、組織的ともいえる援助と協力によって、入院することもなく、自分が築きあげた自宅で、家族と共に生活し、静養することができました。もし私の母、または私自身がこの病になったときは、とてもおばあちゃんに対するのと同じケアはできないと思うし、また期待もできないでしょう。老人医療や地域医療の体制が現状のまま続くのであれば、まず入院は避けられないでしょう。

*    *    *    *


 春も半ばを過ぎ、暑ささえも感じるようになった5月のその日、おばあちゃんは喉に痰か何かを詰まらせたのがきっかけで心不全となり、危篤に陥りました。それから2週間後、おばあちゃんは静かに息を引き取りました。

 おばあちゃんの、私の母やその兄弟姉妹の、そんなみんなの、7年間の闘病生活でした。

  1990.7.19




 おばあちゃんは、家族によって老後の世話が受けられる、最後の世代だったのかもしれません。おばあちゃんは、文章にも記したとおり、6人の子をもうけています。いわゆる子沢山の時代の中にいたわけですね。しかし、私の父、母の世代に至っては、子供をたくさん産むということは、あまりなくなって、今日に至るにあたっては、いわゆる「核家族」、子供は1人か2人止まりというのが一般的になってきました。私の両親はもうおじいちゃん、おばあちゃんと言ってもよい年齢です。今はまだ元気で悠々自適の生活を送っていますが、これがもし、どちらかでも病床に伏したとしたら、一体誰が世話をしたらよいでしょうか。私の兄弟は3人兄弟ですが、兄弟だけで面倒をみるとしたらもうぎりぎりです。それでは、自分が病床に伏したら・・、そんなことを意識して書いたものでした。

 おりしも、1989年12月に「高齢者保健福祉推進十か年戦略」が策定され、それに基づく予算措置、整備計画が、国、各自治体で組まれつつあります。1990年に入っては、福祉関係8法の改正が行われ、老人の医療を中心に、地域ケア、在宅ケアの推進に向けて動き出しました。これらが整備されれば、高齢化社会、核家族化社会に対応できる社会を構築する一定の礎になるものと期待されます。上の文章には、「まず入院は避けられないでしょう」なんて書きましたが、いらぬ心配・・と思いたいですね。

 その「十か年戦略」に対する評価ですが、これで十分なプランか、ということについてはなかなか難しいところですが、これより1年前に出されたいわゆる「福祉ビジョン」のプランが、実効する前に修正されたわけですから、この「戦略」のプランも時勢に応じて修正されていくことでしょう。

 しかし、これらが掲げた目標や理想が実現するためには、国、自治体の機構整備をはじめ、財政対策、人材の確保、養成など、極めて多くの解決すべき課題があることに気づかされます。何よりも、ここには、増税の受け入れなど、国民の政治的選択にかかわる問題も含まれているわけであって、諸施策の実現までには、国としてはなみなみならぬ努力が必要であるでしょうし、それと同じく、私たちの運動も不可欠かと思います。(1991.3.20)



 [ 1997. 2.15 登載] 
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