ひとりごとのつまったかみぶくろ

 次の文章は、1990年10月1日発行、PASS論文集「社会福祉の人間的原理」(文理閣)に掲載されたものの元原稿です。
 


はばたけ精神障害者
―デイ・ケアからの社会参加―




 はじめに 精神障害者のリハビリテーションの大きな転換の中で
   1  慢性精神分裂病者の理解のために
   2  M病院のデイ・ケア活動
       デイ・ケア活動の拡がり
       Mデイ・ケアセンターが開所して
   3  リハビリテーションを担うデイ・ケアに向けて
       生活保護受給7年のAさん
       昼過ぎまで寝ている毎日だったBさん
       僕は電車が大好き
 おわりに 精神障害者のリハビリテーションの礎



はじめに 精神障害者のリハビリテーションの大きな転換の中で

 近年、精神障害者の医療のありかたは、入院中心の精神医療から、在宅、外来中心の地域精神医療へと、大きく転換しつつあります。これに伴い、精神障害者の社会復帰に向けてのリハビリテーションの試みも、大きく変わってきています。

 1981年の国際障害者年の前後を起点として、リハビリテーションという言葉に対して、障害者の全人間的復権という意味合いを含めて話されることが多くなってきました。この流れの中で、精神障害者のリハビリテーションについても、これまでの機能改善や就労だけに力点を置いた働き掛けから脱皮して、この全人間的復権、分かりやすい言葉でいうと、人間らしい生活、または現代社会の文化水準に見合った生活の享受、専門的にはノーマライゼーションとかQOL(quality of life)の確立などといわれていますが、つまりは、障害者なりの豊かで楽しい生活、生きがいをいかに築いていくか、という考えに基づいた展開が各地で試みられています。

 そのような情勢の中で、私の関心もまた、私と仕事の上で係わりあっている人々…その多くが自宅に引きこもりがちで、することもなく、無為、自閉に陥っている慢性の精神分裂病者です…が、どのような過程を経て、豊かで楽しい生活や生きがいを築いていくか、また私たちのどのような働き掛けによって、それが実現されていくか、その実践理論の構築であるわけです。

1 慢性精神分裂病者の理解のために

 俗にきつねつきなどとも呼ばれ一度発病したら手の施しようのないものと思われていた精神分裂病。これも医学の進歩により現在ではかなりの状態の改善が期待できるようになりました。しかしながら、時々テレビや新聞などが報じるように、精神障害を有する人がわけもなく人にけがを負わせたとか殺人にまで至ったなどということが現実にあり、このような状況に影響されて、多くの人々の心の中には、精神障害者は自分の周りにいてほしくない人々という形で意識されているようです。

 精神分裂病の人は、本当に住民に危害を与える可能性をもった危険な人でしょうか。論を進める前に、まずこの点の、無理解または誤解している人々や社会に対する正確な情報の提供に努めなければなりません。

 「皆が自分をバカにしている」「天があの人を殺せと言っている」のように、実際にはそのような事実はないのに、人の精神機能の異常によって、そのような声が聞こえてくる、すなわち幻覚や妄想が生じる、また興奮すると自分で自分の行動がコントロールできなくなるなどという症状が現れることがあるのが精神分裂病の大きな特徴です。精神障害をもった人が起こした傷害事件などの多くは、このような症状がさせたのでしょう。(この幻覚や妄想などを起こすものが、ここで取り上げた精神分裂病特有のものではなくて、例えば覚醒剤に代表されるような薬物によっても生じるものであり、このような薬物中毒者の精神障害が原因となって引き起こされた事件なども絡み合って精神分裂病者に対する排斥・隔離の考え方が拡がっているという状況があることは悲しいことです。)

 精神分裂病は、このような幻覚や妄想・興奮というような症状を伴って発病することが多いので、とかく人々には、精神分裂病=幻覚・妄想がある=何をするかわからない=他の人々に危害を与える危険性がある、などというイメージでとらえがちです。しかしこの幻覚や妄想という症状(これを精神分裂病の急性症状と呼ばれています)については、現在では、適切な医学的処置のもとで、早期に抑えることができるようになりました。つまり、このような急性症状を呈している間は、例えば入院という手段を用いて、(これは多分に社会防衛的な要素があることを否定するものではありませんが)社会から隔離することもときとして必要でしょう、その上で治療に専念する時期であるともいえます。

 この急性症状を呈する期間は、中にはこの症状が消えなくて何年もの間入院生活を余儀なくされる人もいるにはいますが、一般的には、長くて3か月程度で治まるようです。この急性症状さえなくなれば、社会防衛とか隔離という感覚で入院加療する必要はなくなるわけです。普通はこの時点で退院ということになります。

 しかし、現実には、急性症状がなくなったからといって、誰もが退院に結び付くというものではありません。

 その一つの理由は、この病気の治療には極めて長い時間が必要であるわけですが、その服薬を中心とする継続的な治療を怠った場合、症状の再発(再燃)の危険性が極めて大きいので、特に病識のない人の場合、病院外での継続的な治療が難しくなることがあります。この再発(再燃)の心配と、再発(再燃)に陥った場合の病院や公的機関によるフォロー体制不備の不安のために家族や地域が引き取らないという例が時にはあります。

 それよりも大きな理由は、精神分裂病の予後の特性と、それに対応する社会の整備が今なお極めて不十分であるためだと言わなければなりません。1989年の時点で、我が国の精神病院に入院している患者の数は約32万人ですが、そのうち精神分裂病が原因で入院している人は約20万人と言われています。そしてそのうちのかなりの割合が5年を越す長期入院者となっていますが、そのような事態を産み出した最も大きな理由は、彼らを地域に受け入れる社会的条件が極めて不備で、地域で生活することを困難にしているからです。

 このことについて、もう少し詳しく述べることにしましょう。

 精神分裂病の場合、急性症状が消え去った後でも、かなりの割合で、後遺症といいましょうか、その人の精神機能の上に独特の傷を残します。これを精神医療の関係者は残遺状態とか陰性症状などと呼んでいますが、この状態が、その人のその後、まず一生続くことになります。現在の医学の状況では、この状態を改善する薬などはまだ開発されておりません。このような状態の人たち、すなわち、幻覚や妄想などの急性症状は既に治まり、後遺症としての残遺状態のみが残った人々のことを、慢性精神分裂病者と呼ぶことにします。

 その慢性精神分裂病者がもっている症状や特徴を、医学関係書や私と係わり合っている人々の様子を見て、私が感じたままに記してみることにします。

 1、「情意鈍麻」
 医者がよく言葉にする陰性症状というのは、これを指すようです。これが病気そのものの症状なのか、または他の機能障害の結果産み出されたものなのかは、まだよくわかっていないようです。感情面における豊かさの減退、意欲面における自発性の減退がみられます。無気力となり、姿態は弛緩し、無為となります。対人的接触は疎となり、自閉的、孤独、つきあいはうわべだけのものとなります。慢性期に移った精神分裂病者であれば、これらの症状が強かれ弱かれ、まず見られます。

 2、対人関係が不得手
 ちょっとした言葉で傷付き易い、冗談が冗談として通じない、同じことを何度も繰り返し聞いたりする、気配りが下手、これらのためかスムーズな人間関係の維持が困難です。

 3、物事に精神を集中させることが苦手
 集中しようとすると緊張が強くなってしまいます。何をするにも絶えず気を張り詰めていなければならず、ゆとりがありません。そのためにすぐに疲れてしまい、長時間の作業(遊びも)ができません。会話をした場合、話の理解度も普通の人と比べて落ちるようです。

 4、やるべきことはやってしまわないと不安
 今自分に行うべきことがあると、それを終了させてしまわないと不安です。例えば食事が出ると、まずそれを食べてしまわないと次の行動に移れません。食事しながら雑談するということが苦手です。

 5、物事を行う上で、順序立った行動をすることが難しい
 例えば料理をするにしても、まず材料や道具を準備する、次に洗う、次に煮る、そして盛り付ける、ということを順序建てて行うことが困難です。一つの行為が終了したら行動が止まってしまい、指示を待っています。状況を言葉で説明して考えさせても見当が付きません。また言われたとうりにしかできません。普通の人であれば配慮するところの、自分に合った方法出やってみるとか、手加減するとか、つまり工夫ができません。だから一つの手順を覚え込んでしまうまで、手取り足取り、何度も繰り返して教える必要があります。

 6、新しい場面や問題に対して、強い不安と緊張を生じる
 せっかく一つの作業ができるようになっても、以前と少し状況が変わったり、何かトラブルがあると、焦ってしまい、行動が止まってしまうことがあります。その時何をやったらよいかが見えず、不安になってしまうのでしょう。そのためか一度覚えた方法に固執し、融通が利かないようにも見えます。また新しいことに対しては臆病で、なかなか手を出しません。

 これらのほかにもいろいろな特徴が気付かされます。以上記したことがすべての慢性精神分裂病者に当てはまるということではなく、人によって軽重、タイプがあって、一概に表すことは難があるのかもしれませんが、ある程度このような一般的特徴があるとして記してみました。このような状態では、一人で町を歩くということはおぼつかなく、遊ぶこともできません。これらは、ともすれば、その人は怠け者だ、と誤解されることがあり、また社会から孤立し、家の中に閉じこもる生活に陥る原因にもなります。

 慢性精神分裂病者がもつこれらの症状や状態について、これを治療すべき病状であるとして、これらが治まるまでは面倒をみようと、意図的に長期入院を推し進めている医療機関もかなりあります。しかし、医学の現状においてこれについてかんばしい回復が見込まれない今日、いたずらに入院期間を延ばして、本来人がもっているはずの社会の中で一人の市民として生活するという状態(権利)を奪うべきではないという考え方も徐々に定着しつつあります。身体障害者をはじめとする障害者の誰もがハンディキャップを背負いながらも一人の市民として生きていけるような社会の構築に向けて多くの人々が努力をしているように、ここで述べる慢性精神分裂病者をはじめとする多くの慢性病者も同じように市民としての生活の保障は不可欠なものであると信じます。

 慢性精神分裂病者がもっている諸症状、これらは明らかに社会や地域の中で生活する上での大きなハンディキャップになるでしょう。そのようなハンディキャップがあっても社会や地域の中で生活できる条件、それの構築が不可欠です。そのような考え方から活用が叫ばれるようになったものの一つが、精神科デイ・ケアです。精神科デイ・ケアを通して、ハンディキャップをもつ人々がどのような過程を経て市民としての状態(権利)を回復していくか、私が自分の仕事を通して見たことの報告を通して、慢性精神分裂病者のリハビリテーションの方法を考えていきたいと思います。

2 M病院のデイ・ケア活動

 私が勤務するM病院は、N市の市街地をはずれた市営住宅と新興住宅が入り交じる丘陵地にあり、約4百の精神病床を有する精神病院です。1987年春、病院敷地内に精神科デイ・ケア施設(通所型)として、「Mデイ・ケアセンター」が開所しました。私はソーシャルワーカーとしてそこに配属されています。

 ここでは、M病院の医療の中で、この「デイ・ケア」と呼ばれるものがどのように産まれそしてどのように拡がってきたか、そして、現在そこではどんな営みが行われているかを紹介することにします。

 デイ・ケア活動の拡がり

 M病院では、以前から、散発的ではありましたが、退院した患者が昼間の憩いの場を求めて病棟に遊びに来ていました。家に居てもすることが何もない日や仕事のない日に、病棟に来て1日を過ごすことで、その人たちの生活を安定したものにし、また病状の悪化を未然に防ぐという役割もはたしていました。このように、地域での生活を一人では上手にやっていけない人々に対して、医療機関が昼間過ごす場を提供することをデイ・ケアと呼んでいます。

 1975年、病院内にリハビリテーション棟が建設されました。これは入院患者の生活療法・作業療法を実施する目的で作られたものですが、かねてからデイ・ケアを求める声が大きく、それに応える形で、8つある作業グループのどこかに空席があれば外来患者も受け入れられることになりました。そのようにして、1976年は6人、1977年は7人と毎年何人かが入院患者に混じって活動を行いました。

 そのような経過の中で当院でのデイ・ケアの必要性は更に高まって、1981年からは、リハビリテーション棟の各グループに2人ずつ、全体で16人のデイ・ケアの枠を設ける、という形で変則的なデイ・ケア活動が始まりました。

 1975年にリハビリテーション棟が外来患者を受け入れてから、1985年までの約10年間に89人の人をデイ・ケア通所者として受け入れました。

 そして1985年秋、1987年のデイ・ケアセンター開所に先立ち、専従スタッフ3人(看護職員2人、ソーシャルワーカー1人)を配置して、その当時リハビリテーション棟に通っていた17人をメンバーとして、本格的なデイ・ケアが開始されました。施設はリハビリテーション棟の一部を改造したものでしたが、デイ・ケアに通ってくる人たちだけて活動し、活動内容も自分たちの自主的な意思が尊重され、和気あいあいとした雰囲気に加えて活気のあるグループ活動が展開されました。

 このような活動は、院内の活動や入院患者への社会復帰意欲にも好ましい影響を与え、長期に入院していた人が退院し、デイ・ケアに多くの人が移ってきました。開始して10か月ほどで登録メンバーは40人になり、30人以上出席する日も多くなりました。しかし場所も狭く、専従職員も少ないため、登録の制限をしなければなりませんでした。

 このようにして、1987年春までの1年半に、58人の人を受け入れました。

 Mデイ・ケアセンターが開所して

 1987年の春からは、デイ・ケアは病院敷地内に新たに建てられたMデイ・ケアセンターで行われることになりました。センターの建物は2階建。総面積は約1千平方メートル。1階はロビー、ミーティング室、談話室、調理実習室、作業室などがあり、デイ・ケアのための専用施設です。2階はレクリエーションホールで、これは入院患者と共同使用です。この日から、デイ・ケア活動は一つの科として独立し、専従スタッフ6人(看護職員4人、作業療法士1人、ソーシャルワーカー1人)と兼務医師2人が配置されました。

 同年夏からは、デイ・ケアが社会保険診療報酬の対象となるとともに、給食が開始されました。デイ・ケアとしては月曜日から金曜日までの週5日実施し、土曜日も午前中の半日、施設を開放しています。

 開所当時の登録メンバーは35人でしたが、1988年秋には70人に達しています。

 毎日の平均出席者数は、現在は40人強となっています。1989年秋の時点の在籍者70人の平均年齢は34・5歳(概算。ちなみに最高年齢は61歳、最低年齢は17歳)。

 うち、慢性の精神分裂病で入院経験のある人が9割以上を占めています。また単身生活者は15人です。この2年半の間にデイ・ケアセンターを利用した人は127人に上ります。

 このデイ・ケアセンターに通所を希望される人は多いのですが、希望されてもなかなか受け入れできないというのが現状です。登録待ちという人が絶えず数人から十数人みえるというのが現状です。長い場合で4か月以上待っていただいたことがありました。センター開所前にデイ・ケアを実施していたリハビリテーション棟で作業中心の第2デイ・ケアを近い将来開始するという条件で、1988年夏に登録定員を60人から70人へと10人増やしたのですが、それもすぐに満たされてしまいました。

 当センターの利用に際して、通所期限は特に定めていません。本人や関係者、主治医から依頼があった場合は、県下広くからできる限り受け入れるようにしています。そしてデイ・ケアをステップにして就職や復学、家庭内適応をはたした人は退籍となります。またここが自分に合わないとかつまらないと思った人や自分はもっとできると感じた人の中には、自分で仕事や他の道を捜してくるという人もいます。また逆に、症状が再発して入院治療に切り替わるということもあります。しかしこれらのいずれの場合でも、状況が変わってデイ・ケアが必要になった場合にはただちに受け入れられるように配慮しています。

 高齢の人の通所については、年齢制限を設けるべきだという考えもありましたが、ある57歳の女性については、長い入院生活と次に行くであろう老人ホームとの間にあって、唯一地域で生活できるチャンスを奪うべきではない、として認めました。

 当センターの活動の主眼は「スタッフとメンバーは対等に」です。通所者のことを私たちはメンバーさんと呼んでいます。スタッフはメンバーに溶け込んだ一人の仲間として、私服で過ごし、共に協力してデイ・ケアを育てていこうという気持ちで接しています。このような雰囲気の中で、当初、無為、依存傾向の強かったメンバーも徐々に自発性を回復し、生活力を身に付けるようになってきています。

 センターの活動プログラムの決定は、できるだけメンバーの希望が反映されるように努めています。センター側で設定したプログラムは、創作活動や作業、料理などスタッフの技能を要するものに限っており、それもできるだけ午後に集中させています。午前中のプログラムについては、毎週月曜日に行われるメンバーミーティングで、参加メンバーの討議によって次の週のものを決めています。季節的な要素も含まれますが、ソフトボールやゲートボール、ミニバレーボールなどのスポーツ、また散歩などが好まれるプログラムです。時にはカラオケ大会というときもあります。メンバーはそこで決定されたプログラムの予定表を見て、自分はどれに参加するかを決めることができます。その日のプログラムはつまらないと思ったら、自主的に休むメンバーもいます。

 メンバーに、プログラムや当番の掃除などになかなか参加しない人も中にはいます。そのような人に対して、必要だから、とか、当番だから、というような勧め方はまずしません。最もよく用いる言葉は「一緒にやろうよ」です。つまり招待、または呼び掛けという方法によって、自分から参加する気持ちがわいてくるような場面をつくるように配慮しています。

 センターの目玉の一つが談話室です。施設の一角にいわゆる喫茶店を設け、希望したメンバーでそこを運営しています。コーヒーや紅茶など1杯100円で飲んでいただいています。入院している人、病院を訪れた人など多くの人に喜ばれています。

 昼の休み時間に自主的にテニスを行うグループが生まれました。職員もその姿につられて参加するようになってきました。また、センターのプログラムは一応午後3時に終わりますが、その後も残って雑談したりマージャンを楽しんだりする人もいます。病棟の人を呼んだり、時には手すきのスタッフも加わって、職員の勤務終了時刻ぎりぎりまでマージャンをすることもあります。卓球クラブも生まれました。

 Mデイ・ケアセンターでは、街中へ出ることも重視して、適宜外に出るようにしています。

 春、あるグループの話し合いで、市内中央の公園にバスと電車に乗って行こうということになりました。参加メンバーは8人。スタッフは2人ついていきました。ついていってまず困ったことは、バスに乗る時、料金の払い方が分からない人がいたことです。もっと困ったことは、駅で、切符の買い方が分からない人が多い。自動改札口が通れない。切符を投入口に入れたもののもたもたしているのでゲートが閉まってしまう。後には一般の人々がついてきている。スタッフは走り回り、駅員にも少し協力してもらって何とか通り抜けることができました。このように、社会生活を送る上で訓練が必要な場面が数多くみられます。

 また、年に1回1泊旅行を行っています。計画にはメンバーの意見をできるだけ取り入れるようにしています。そのようにしてG温泉に行きました。温泉にはスタッフもメンバーも他の一般の客が大勢入っている中へ一緒に入りました。宴会は皆でカラオケ大会。部屋では夜遅くまで生活のことや結婚のことなどを話し合いました。

 センターのスタッフが実施した訪問ケア活動は、センターが開設されてからの2年半で2百件を越しています。単身生活者の生活指導を中心に、メンバーの症状が変化したときのケア、家族療法、家族との話し合いが主で、時季的な偏りはありますが、月平均約7件の割合で行いました。

 精神障害者の就労援助制度として、障害者の就労に好意的な配慮をしてくれる事業所に自治体が補助金を交付する職親(しょくおや)という制度がありますが、その職親などへの就労援助のほか、アフターケアも実施しています。

 ある日、ある職親のもとに就職した27歳の男性のメンバーさんの様子を見に職場訪問に行った時、そこの専務さんから次のように言われました。「先日、仕事の後、他の従業員と一緒にアダルト映画を見に行ったようだが、良いのか」と。私はすかさず「それは一人の大人として認めてあげましょう」と応えました。精神障害者に対する風当たりの強い地域社会や世間に向かって、無知や誤解、そして偏見をなくしていくように働きかけることも、私たちの大切な仕事です。

 また、定期的にメンバーの保護者の方に集っていただく家族懇談会を開いています。

 ちなみに、1989年9月秋のデイ・ケア在籍者70人の保護者(精神保健法に定める保護義務者とは限らない)の内訳と年齢を示せば、父親または母親である場合が最も多く、55人で、平均年齢は64・2歳(概算、以下同じ)、その最高齢者は83歳で、また70歳以上の人が12人います。兄弟・義兄弟であるものは11人で平均年齢は52・1歳、そのほかは、配偶者が2人で43・5歳、伯父が1人で83歳、息子は1人で33歳です。保護者が親でないものは、両親が既に亡くなっている場合が多く、保護者の高齢化、世代交代を顕著に示すものとなっています。

 私たちはメンバーの姿だけを見てその対応だけで自己満足してしまうことが往々にしてありがちですが、家族懇談会の時に保護者の声を聞くことを通して、メンバーの背後には家族の悩みや切なさ、戸惑いなどそれぞれの思いがあることが気付かされます。

 センターに通っているメンバー集団の変化を見て、最も感激していることは、メンバー相互に思い遣り、助け合う雰囲気が生まれてきたことです。デイ・ケアでの人間関係がそのまま地域での生活にまで及び、訪問し合ったり一緒に買い物に行ったりする人も出てくるようになってきました。

 次のようなケースがありました。デイ・ケアに籍を置きつつ洋裁店に勤めていた女性がいたのですが、どうも仕事に疲れ気味の様子でした。ある日、その人を気分転換させようとメンバーの男性と女性が街に映画とショッピングに連れていったわけです。しかしその途中でその人が再発してしまい、錯乱状態に陥ってしまいました。それでもついていった2人は慌てることなく、病院に電話をし、医師の指示を仰ぎ、もう一方ではタクシーを手配して、病院までその人を運び、入院させることができたのです。

3 リハビリテーションを担うデイ・ケアに向けて

 地域で生活する上で大きなハンディキャップを背負っている慢性精神分裂病者、そのような人々が精神科デイ・ケアの活用を通してどのように市民としての生活を回復していくか、経験したケースを参考にストーリーを創作し、イメージの紹介をとおして、デイ・ケアの機能を論じてみたいと思います。

 事例1―生活保護受給7年のAさん

 Aさんは50歳の男性。30年前、大学在学中に精神分裂病に罹り、その後入退院を繰り返しました。両親は既に亡くなり、現在は単身でアパート生活です。8年前から生活保護を受けています。姉がこの人の保護者となっています。この姉がAさんのアパートに訪れることはまれですが、デイ・ケアや本人宛に時々手紙を書いてくれます。またAさんの方からはお金に困った時など時々援助を請うようです。

 Aさんは単身生活の中で無為に近い状態に陥り、酒とタバコ、それに好きなギターをたまに弾くくらいで、部屋の中央に万年床があり、畳の上一面に積もった綿ぼこりと空のビール瓶とタバコの吸い殻の山に囲まれて、正に寝たきりに近い生活を送っていました。自炊をしないので、食事は近くの食堂での外食かパン屋でパンを買ってくるというものでした。生活保護によって毎月8万円に近い収入があるわけですが、家賃や前の月に食堂などでためたツケを支払ってしまうと手許にはほとんど残りません。また現金が手許にあると酒を飲んでその日のうちになくなってしまい、借金生活を余儀なくされるという生活を毎月繰り返していました。福祉事務所から、銭湯が利用できる入浴券が期間ごとに交付されるのですが、それもお金や物と交換してしまい、入浴しなくなってきています。身体の所々に褥瘡(じょくそう)ができています。

 この状況から何とか抜け出せるように、また身体を動かす機会をできるだけ設けるためにと、主治医の勧めによってデイ・ケア通所が始まりました。

 アパートからデイ・ケアセンターまでは歩いて1時間近くかかります。お金がないのでバスにも乗れません。アパートとの電話連絡も不可能です。本人としてはデイ・ケア通所についてあまり積極的ではありません。このような状況の人をいかにして援助するか――服薬の継続のために定期的な受診を維持しなければなりません、健康状態の変化を把握しなければなりません、生活状況の改善を指導すること、そして豊かな生活体験を享受する場面を設定してあげることはこの人にとってとても大切なことです。

 私がAさんに定期的な家庭訪問と所持金の管理を申し出たところ、抵抗なく承知してもらえました。またデイ・ケアや姉への連絡用にとテレホンカードを買ってもらいました。

 所持金の管理というのは、生活保護給付金の全額を私が預かって、デイ・ケアに通ってくる度に日割りで少額ずつ本人に手渡すというものです。これによって計画的な金銭使用の感覚を養おうと考えたわけです。

 大きな効果を期待して始めた試みですが、これを始めて2年以上経た時点においても正直なところ大きな効果は出ませんでした。というのは、先にも述べたとおり、福祉事務所で給付金を受け取っても家賃や前月分のツケを支払うと、残るお金は数千円という状態です。1日あたり2、3百円では、1時間かけてもデイ・ケアに通いたいという魅力になるには足りないようです。借金をつくり過ぎて、給付金の全額を支払ってもまだ足りないという月もあります。

 センターに来ても、受診と給食、そして預けた金を取りにくるだけという感が強く、デイ・ケアのプログラム中でも一人だけ椅子に越し掛けているという状況からなかなか脱却できません。でもこの頃は、ソフトボールなどに誘えば参加してくれるようになってきました。また料理のプログラムの時には「今晩の夕食を一緒に作りましょう」などと言って誘い込んでいます。病院施設内の風呂を活用して、入浴させるようにもしました。

 このようにして、デイ・ケアと姉、またこれに福祉事務所の担当員も加わって、かろうじて地域での生活を支えています。

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 現在の社会保障制度のもとでは、在宅の精神障害者の生活に対する援助の手段は、家族による保護、そしてそれが得られなくなった人々に対しては生活保護による所得保障、が一般的なものとして考えられるところです。しかしそれだけでは、現代の文化水準の中で、彼らがそれに見合った文化的な生活を営むための基盤を保障するものとしては余りにも貧弱であるということは明らかです。

 就労していなければ地域で生活することは難しい、というのが現代社会における根本原則のようです。精神障害者であっても、就労さえできれば、そこに「社会復帰」とか「自立」という評価が与えられて、社会の一員として認められる状況がかなり確立してきました。しかし、どんなに努力しても就労にまで導くことは難しいというような人に対しては、いわゆる「不適応者」として、社会の誰からも見向きされない状況に置かれています。彼らが社会の諸場面に参加することを拒む風潮さえあります。

 居場所がない――このことが彼らを自宅に閉じこもらせ、無為の生活に陥らせ、そして世間の目に触れることなく忘れられた存在となってしまう、という悪循環をも産み出しています。デイ・ケアの機能の一つとしてある「社会参加の促進」ということは、就労や生活技術の訓練のことだけを意識して言っているわけではありません。デイ・ケアを、彼らの生活と現代の文化とを結ぶ掛け橋として機能させたいということです。すなわちそれは、彼らに対して、「私たちと一緒にこの世界を楽しみましょう」、更には「人間らしく生きようよ」と呼び掛けること、そしてそれが成し遂げられる場を提供することだといっても良いでしょう。

 事例2―昼過ぎまで寝ている毎日だったBさん

 Bさんは二十代の男性。精神分裂病。家族と一緒に住んでいます。

 中学生の時に発症。学校は休みがちとなり、高校は4年かけて卒業。その後専門学校に進学するが中退。その後仕事に就くが、3か月しか続かなかったとのことです。

 発症以来、いくつかの精神科に通院しました。まだ入院経験はありません。

 主治医に勧められ、デイ・ケア通所が始まりました。1年半が経過しています。

 デイ・ケア通所前の生活状況は、毎日昼過ぎまで寝て、いわゆる昼夜逆転の生活をしていたとのことです。

 このような生活習慣が身に付いてしまったことについて、「中学生時代、学校に行けない日が多かったわけですが、病気だから行けないのだからそのような日は寝ていなさい、と母に言われました。そのようなことが続くうちに起きられなくなってしまいました。」と話してくれました。

 デイ・ケア通所が負担にならないように、当初は週3日出席という形で進めることになりました。

 デイ・ケアのプログラムで、スポーツには積極的に、また楽しそうに参加するのですが、とても疲れるということで、家に帰るとすぐに寝てしまうとのこと。また指定された週3日というのは、月、木、土曜日であったわけですが、土曜日はもともと出席者が少ないということもあり、しばらくするとこの日は休みがちになってしまいました。更に、朝定時に起きるという習慣を確立させることは相当難しく、寝過ごしてデイ・ケアに向かう機会を逸してしまうこともしばしばありました。デイ・ケアの休みの日、また休んでしまった日はやはり昼過ぎまで寝ているとのことでした。

 1月2月経つとともに出席率が悪くなってきてしまいました。この状況の打開のために、この人のケース担当の看護婦が中心になって電話でモーニングコールを始めることにしました。プログラム開始時にまだ来所していなかったら、直ちに彼の自宅に電話を入れました。「一緒に散歩に行きましょう」とか「今日の給食はごちそうよ」などいろいろな言葉を用いて誘い出しました。この甲斐あって彼の出席はしだいに安定したものになっていき、出席日も1日ずつ増やしていくことができました。出席が続いた日には、「すごいね、記録更新よ」と誉めてあげました。通所してから8か月目のある日、Bさんの方から、「もう自分で起きられるから、電話は要りません」と言ってくれるようになりました。

 Bさんは、手先の細かい作業は苦手、と言っていましたが、仲の良くなったメンバーさんに誘われて、私が担当している室内作業のグループに参加してくれるようになりました。

 仕事の内容は、テレビの部品を作る上での一工程で、フェライトのリングに電線をコイル状に巻き、最後にハサミで線を裂き、末端を処理するというものです。一人が一人分の仕事を行うことは能力的にも時間的にも難しいところがあるので、業者からは一人分の仕事だけを仕入れて、それを4、5人で分け合って仕事を進めるという形で行っています。

 作業の全工程は、普通の大人であれば2分程度でできるものなのですが、Bさんの場合、初めのうちは一つを仕上げるのに7分から8分かかりました。その上、何度も何度も指摘するのですが、電線の巻き残しの長さが短かったり、コイルの巻きがゆるかったり、電線を裂く時に被膜を破いてしまったりの失敗が多く、製品の半分以上が不良品という状態でした。もうこれを1年以上続けているわけですが、現在では、作業そのものは速くできるようになったのですが、まだかなりの割合で不良品が出ます。

 慢性精神分裂病者の多くがそうなのですが、私たちから見れば単純な作業手順でも、彼らにとってはこの手順を覚えるということがとても難しいのです。最初は手取り足取りで、手順の一つ一つをゆっくりマスターしていくことが必要でした。このことに耐えられず、たった1日試みただけでグループから去ってしまう人が多かったのですが、Bさんはねばり強く続けてくれました。

 これに自信を付けて、2年目からは談話室の要員としても入ってくれるようになり、またワープログループにまで加わるようになりました。

 このように、デイ・ケアの中では着実に自分の世界を拡げているBさんですが、しかし帰宅すると、今でもすぐに床に入ってしまい、デイ・ケアの休みの日は、することもなく、無為の生活を続けているとのことです。

*          *

 このBさんの例のように、通所者は、デイ・ケアに通うことによって、デイ・ケアの中では、着実に行動力を回復させ、自分の世界を拡げ、確かに良い方向での変化を見せる人が多くなってきています。しかし帰宅すれば、また休日は、やはり無為や自閉の生活、知っている世界は自宅とデイ・ケアだけ、というのもまたこの病をもつ人々の一般的な姿です。いきいきとした姿はデイ・ケアでだけ、というのであれば、これではとても本当の豊かで楽しい生活を築いたとはいえないでしょう。これをいかに打開するか、これが現在私たちに課せられている課題の一つといっても良いでしょう。

 そのような中で、それを解決するヒントを示唆しているのではないかと思われるケースがあります。次にその事例を紹介し、後に、そのことについての考察を加えようと思います。

 事例3―僕は電車が大好き

 Cさんは、30歳の男性。中学卒業後1年も経たないうちに精神分裂病を発病し、入院。その後、途中2回、延べ3年ほどの在宅期間があるほかは、ずっと入院生活でした。

 3年前に退院、その後直ちにデイ・ケアに通い始め、現在に至っています。

 Cさんは、デイ・ケアには、月曜から土曜まで、長い間ずっと皆勤を続けていました。しかし、プログラムには参加したりしなかったりで、部屋でごろごろしていることが目立ちます。

 この人は、簡単な作業でも少し予期しないことが起きるとすぐ焦ってしまい、「ア、ア、」と苦しそうな声を発して、行動が止まり、何もできなくなってしまいます。その上過度の肥満があり、疲れ易く、また若年発症のため就労の経験が全くないので、就労という方針を打ち立てることは今のところ無理な状態です。

 Cさんは電車と旅行が大好きで、絵画のグループでいつも電車の絵ばかり描いています。いつも、電車に乗りたい、とか、旅行に行きたい、と思っているのですが、発病以来、家族と旅行に行ったことがほとんどなく、また自分一人で旅行することはとてもできませんでした。まれにあるデイ・ケアの旅行には率先して参加し、グループで計画した旅行には、他のグループのものにまでついて行きました。親しかった友達が働いている職場にスタッフが訪問することになった時、そこへは電車に乗って行くと聞いて、一緒についてきました。このように、長い間、他人が計画した旅行について行くとか、また仲の良い通所者の自宅に遊びに行くという程度で甘んじていました。

 そのような経過が続いていたのですが、通所者に、「私も電車が好き」という人がいて、その人と話がはずんだのか、ある土曜日のデイ・ケア終了後、2人で約40キロ離れたO市まで電車に乗って行ってきたというのです。その後、土曜日は、デイ・ケアで2人待ち合わせて電車旅行をするということが時々あるようになってきました。その人の都合が悪ければ、他の人に頼んでついて行ってもらいました。このようにして、Cさんとの電車旅行に付き合ってくれた人は、6人ほどになりました。このごろは、例えば、新しいデパートが開店した、とか、新しい駅舎が完成した、というようなニュースが入ると、デイ・ケアを休んで2人で行く、ということもみられるようになりました。

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 無為、自閉の状態に陥ってしまっている慢性の精神分裂病者の行動力を回復させ、その生きる世界、生活圏の拡大のためには、人による働き掛けが不可欠です。分裂病者について、よく依存傾向が強いなどといわれますが、それは、気分に余裕がなく、何をするにしても不安が伴い、自信をもって行動できないからです。そのために一人では何もできない、小さな一歩も踏み出せないということになってしまうのです。それに分裂病者は、対人関係に強い不安感を抱いている場合が多く、その人と深い人間関係を結ぶためには、両者の相互信頼が不可欠です。

 そんな人々を豊かな世界に導く、その担い手の一つとしてデイ・ケアという機関があり、そして私たちスタッフがなるべきだと思い、なり得ると信じた時期もありました。しかし悲しいかな、私は職業人としてのデイ・ケアスタッフであり、私生活があり、配慮すべき家族もいます。彼らのために自分の援助を加えることができるのは、彼らの生活時間のうちのほんのわずかな時間にすぎません。スタッフの中には、通所者と一緒に帰り、帰路、喫茶店に誘ったり、自宅の電話番号を教えて夜間の相談相手になるという、ボランティア的献身をする人はいます。でも、これを一般的に要求することはできません。

 しかし、例えばCさんとその周りの人たち、彼らがデイ・ケアの外で見せてくれたものは、まさに自分たちの力で豊かで楽しい生活を獲得しようとする営みではないでしょうか。そこに存在するダイナミックスは、これをしたいという気持ちはあった、しかし一人だけではその小さな一歩を踏み出すことができなかった、でも気の合った2人一緒であれは躊躇なく容易にできた。すなわち2人になることによって、動機付けが強化、増幅され、また不安が軽減されるなど、集団力学的な効果が表れたのでしょう。相談して物事を決めたり、また判断を任せて従の立場、気持ちで行動できることも行動をしやすくした要因でしょう。

 すなわち、親しい友達ができる、このことが彼らの豊かな生活の構築に結び付く極めて重要な要素であることを示していると思います。

 つまり、デイ・ケアから帰った後でも、休日でも気楽に付き合える人、友達関係、そしてそれを維持し育てていく条件と環境が必要であるわけです。

 このごろ、精神障害者のリハビリテーション関係の文献等に、しばしばセルフ・ヘルプ・グループとかソーシャル・サポートという考え方や試みが報告されてきていますが、これらの中には実践者のこのような体験から築き上げられたものもあるでしょう。

 人には相性、適性があり、これに適した人に巡り会う可能性は、特に家に閉じこもってしまっていることの多い在宅の分裂病者にとっては、ほとんどないといってもよいでしょう。この可能性を少しでも大きくすることができるという意味でデイ・ケアの意義の一つがあります。つまり、この巡り合いのお膳立てをし、その場を提供し、かつ、その関係を確固たるものになるように働き掛けるのがデイ・ケアだといってもよいでしょう。

おわりに 精神障害者のリハビリテーションの礎

 1987年に精神衛生法が改正され、翌年精神保健法として施行されました。これは、医療による治療の名のもとに病気の人の人権が損なわれることのないよう、精神医療が、従来の隔離収容、入院治療中心であったものから脱皮し、かつ精神障害者が地域社会の中で適切な医療と援助を受けながら、市民として社会生活が享受できるよう、つまり地域精神医療の指向が土台となり、そしてそれを後押しするものとなっています。この新しい法律に、我が国の精神障害者に対する施策の柱の一つとして社会復帰が明記されました。

 同じく、この新しい精神保健法には、「国民は…精神障害者等に対する理解を深め、及び精神障害者等がその障害を克服し、社会復帰をしようとする努力に対し、協力するように努めなければならない」と、国民の義務も折り込められました。

 このような流れの中で、今回テーマにした精神科デイ・ケアをはじめとして、いろいろな種類の社会復帰施設や事業が全国各地で展開、拡大されつつあります。もちろん、法律にそれが明記されたからといって、財政の問題、他の関係した法律の整備の問題、住民の障害者受け入れの問題など、まだまた数多くの問題があることは知っています。このことについて専門家、関係者の大いなる論議、検討を期待します。

 ただ、精神障害者のリハビリテーションは、施設や制度のみによってなされるものではありません。最も重要や要素はやはり人であり、家族、地域の人々、そのほかの彼の生活に関係する多くの人々の理解と協力に基づく共同作業によって初めて達成されるものです。その活動を地域の中で組織し育てていくことの重要さを提起して、今回は終わりにしようと思います。

  1990.3.18

 [ 1997. 4.30 登載] 
 ※ この文章に用いている「精神分裂病」及び「精神病院」の語は、現在は、「統合失調症」「精神科病院」という呼び方に変わっております。
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