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  愛知の無癩県運動

愛知県史資料編二六(平成十八年三月三十一日 愛知県発行)七二三頁 第四章第一節 五 『ハンセン病への対応』から


  ハンセン病・精神病・結核救済の対策
一九二九年(昭和四)四月九日.

   癩病、精神病
     結核救済の対策
       中部七県方面委員大会に提出し
         社会施設を練る
来る十九日から三日間長野市に開催される中部七県方面委員大会に愛知県からは方面委員として其の取扱ひに常に困難を感じ然も最も其の為に悲惨な生活を余儀なくされてゐる癩病患者、精神病者及び結核病者に関する件を提出し、これ等への対策に一新生面を開かうとしてゐる、今県下の癩病患者は警察調査で五百六十一人で、恐らく実数はこれに数倍してゐるであらうと見られ、この外に千葉(ママ)全生病院に県費で療養せしめてゐるもの九十二名で、既にこの病院は定員を遥かに越して居りそれ以上は収容し得ない状態に在り他の癩患者は財産のある限り療養に努めたが遂に全快せず、貧困と病気で世をのろつた生活を続けてゐるので、中部七県に癩病療養所の建設を促進せしめんとするものである、又結核で死亡するもの毎年三千百四十三名の数字を示して居り、方面委員の取扱ふ病人は大部分結核であり、一家数人枕を並べて居るなどの悲惨事は間々見る所でありこれに対する社会施設を何とか講究しなければならず、又精神病者は看護法に依り他人に危害を加へんとする恐れがあり、檻置されてゐるもの義務者檻置百六十二名、市町村檻置九十二名であり、この市町村檻置には県費で六千余円を出してゐるが他の一般の精神病者には何等の救護の方法がないので、さきに方面委員会総会では精神病療養所設置の建議案を可決して居り、これ等の実状と対策とを示して七県方面委員総会の決議に依つてこれ等不幸者の救済に努力しやうとするものである
(『新愛知』).





  ハンセン病絶滅のための期成同盟会発足
一九三一年(昭和六)三月十三日.

   癩病根絶の
     期成同盟会生る
       県、市その他団体が参加
         十五日創立大会
昨年十一月十日皇太后陛下より癩病を根絶するやうにと多額のお手許金を賜はつたことは国民一同の恐惧してゐるところであるが、愛知県においては県衛生課、社会課、名古屋市及び名古屋新聞社並にかねてこの方面に力をつくしてゐる希望社愛知県連盟其他の有志団体によつて『癩病絶滅期成同盟会』がつくられ来る十五日午後零時半から名古屋市公会堂において創立第一回の大会が開かれる、当日は東京全生病院(第一区府県立連合癩療養所)長の講演あり香坂愛知県知事も臨席の筈、プログラムは
 △奏楽△明治天皇御製朗詠△権威朗誦△講話光田(ママ)全生病院長、
 村島衛生課長、香坂知事、与良名古屋新聞社長
なほ協賛出演として児童劇、琵琶、マンドリン、舞踊、ピアノ、寸劇、箏曲合奏、新日本音楽等の余興があり一般の来会を希望されてゐる
(『名古屋新聞』).





  ハンセン病絶滅のための期成同盟会初大会
一九三一年(昭和六)三月十六日.

    愛知県癩病撲滅(ママ)同盟
      華々しく初大会
        きのふ名古屋公会堂で
文化日本の汚点である癩を絶滅せよ――の声は全国に率先し名古屋を中心に愛知県下一帯に野火の如くひろまり、まづ同胞愛に燃ゆる若人たちの支持者翕然きゆうぜんとして相集ひこゝに愛知県癩病絶滅期成同盟会の結成をみたので十五日午後零時半から名古屋市公会堂でその第一回大会をかね『講演と音楽舞踊の会』を県衛生課、社会課、名古屋市並に本社の協賛の下に挙行、同会の母体希望社愛知県連盟の社友を中心に来会者二千五百余名、国歌合唱、御製朗詠、権威朗誦終つて村島県衛生課長登壇、県下の癩病の現状を説いて同盟会の使命を高唱するところあり、次いで光田長島国立療養所長起つて我国における癩への聖戦史から歴代皇室の御軫念しんねんあつかつた大御心のほどを列挙し、林全生病院長は癩は遺伝にあらず挙国努力せば絶滅易々たりと説いて、それ〴〵聴衆に深い感銘を与へ次いで琵琶、舞踊、独唱、児童劇、箏曲合奏、新日本音楽等豊富なプログラムにうつり、全会衆を魅了した
(「名古屋新聞』).





  ハンセン病絶滅のための期成同盟会の講演と映画
一九三一年(昭和六)六月二十五日.

    癩病根絶同盟の
      講演と映画の夕
愛知県癩病根絶(ママ)期成同盟会の講演と映画の夕は二十四日夜七時から名古屋市公会堂に開かれた、希望社の黙想、国歌合唱、宮城遥拝、御製朗詠、権威朗詠等あつてから与良本社長、黒田県医師会副会長、松波市医師会長、成田東山寮長の挨拶、講演及び県社会課長代理、県衛生課長代理の挨拶あつて映画にうつり『家なき子』『俺等のスキー』などを漸次映写して感銘を与へた、この夜村島県衛生課長の講演は同氏病気のため中止になつたが雨天にもかゝはらず聴衆およそ二千五百人あり非常な盛会で九時半散会した
(『名古屋新聞』).





  ハンセン病療養所の入所手続
一九三一年(昭和六).

      癩療養所入所手続
癩療養所ハ国立、府県立、私立等相当ノ施設アルモ本県に於ては大体左の二ケ所に於て収容療養を取計つて居ル
 ◎名 称  長島愛生園
  所在地  岡山県邑久郡裳掛村
  経 営  国 立
 ◎名 称  第一全生病院
  所在地  東京府北多摩郡東山村大字南秋津
  経 営  東京、神奈川、新潟、埼玉、群馬、千葉、
       茨城、栃木、静岡、長野、山梨、愛知ノ
       一府十一県
入院療養希望ノ者ハ左ノ書類ヲ知事宛トシ所轄警察署へ提出スレハ県二於テ内容ヲ審査シ長島愛生園或ハ第一全生病院何レカヘ入所ノ手続ヲ執ラル
 (大体重患者ハ愛生園へ入所ノ方針ナリ)
  入所願書  貧窮ニシテ療養ノ資ナク依テ入院治療
        ヲ受ケ度旨記載スルコト
  医師診断書 既往症、現在症及治療上ノ意見ヲ記載
        スルコト
  戸籍謄本ノ添付
(『方面委員取扱便覧』、東海市教育委員会所蔵).





愛知県史資料編二七(平成十八年三月三十一日 愛知県発行)四三四頁 第四章第四節 一 『「無癩県運動」の展開と「十坪住宅」建設募金運動』から


 丹羽郡方面委員による十坪住宅建設資金募集趣意書
一九三五年(昭和十)十月十五日.


 昭和拾年拾月拾五日
      丹羽郡元郡役所内
      愛知県尾西連合方面委員連盟丹羽郡支部

  丹羽郡
  楽田村方面事業助成会長殿

     拾坪住宅建設資金募集二関スル件

別紙趣意書記載ノ如キ目的ヲ以テ標記運動ヲ今般実施スル事二相成候処一ソニ貴職ノ御賛同御後援ヲ得サレハ之カ目的達成スル事不可能ニ有之候ニ付時節柄甚タ御迷惑トハ存候得共何分ノ御配慮賜リ度偏ニ及懇願候 尚貴町村割当額ハ二〇円三七銭也ニ有之関係印刷物ハ別途ヲ以テ及送付候条宜シク御取計被下度申添候


  癩患者に安住の地をあたへよ
   十坪住宅建設資金募集趣意書

 我ガ国ニ於テ従来遺伝病又ハ天刑病等ト誤認シ、徒ラニ嫌悪排斥シテ居タ癩病ハ、病菌ノ感染ニヨル伝染病デアツテ、決シテ血統病或ハ遺伝病デハアリマセン。
 畏クモ皇太后陛下ニ於カセラレマシテハ、日頃癩問題ニ就キ殊ノ外御軫念遊バサレ屢々巨額ノ御下賜卜有難キ御沙汰ヲ拝シテ居ルノデアリマス。寔ニ陛下ノ探キ思召ニ感泣ノ外ハアリマセヌ。
 現在我ガ国ニハ約一万五千人(愛知県内四百五十人)ノ癩患者ガ居リマスガ、コレラノ悩メル同胞ヲ暗黒ノ人生ヨリ救ヒ、過去数千年間我国民ノ苦シミノ種デアツタ、国辱病トモ云フベキ癩病ヲ撲滅スル唯一ノ方法ハ、国立療養所ニ患者ヲ入所療養セシメルヨリ外ニハアリマセンガ、目下ノ政府ノ財政状態デハ、到底充分ニ療養所ヲ拡張スル事ヲ許シマセン。
 ドウシテモ別途愛国献金袋ニ記載シテアル如ク、皆様ノ御理解ト、蹶起ヲ御願シテ、拾坪住宅ヲ建設スルヨリ他ニ途ガナイノデアリマス。
 吾々愛知県方面委員ノ職ニアル者ハ、微力ナガラモ昨年オ互ヒニ五十銭宛出シ合ツテ一棟ヲ建設寄附シ、本年又同様ニシテ一棟ヲ建設寄附スル事ニナツテ居リマスガ、斯ノ如キ遅々タル歩ミデハ何日ノ日ニ我ガ丹羽郡内ノ患者ヲ救フ事ガ出来マセウ。コレヲ思ヒ彼ヲ考ヘル時、私共ハジツトシテ居ル事ガ出来マセヌ。
 郡内ノ癩患者ハ、約拾数名ニシカ過ギナイト聞及ンデ居リマスガ、幸ヒニシテ郡民皆様ノ御理解ト、御同情ニヨリ我ガ丹羽郡ノ独力ニ依ツテ、更ニ一棟或ハ二棟ヲ建設スル事ガ出来マシタ暁ニ於テハ、郡内ノ患者全部ヲ入所致ス事ガ出来ル訳デ、彼等トシテハ非常ニ幸福デアリ、且一般郡民トシテモ大イナル安心トナルノデアリマス。
 希クハ賢明ナル郡民ノ皆様ヨ!私共ノ微意ノアル所ヲ御諒察下サイマシテ、極力御援助御喜捨ヲ賜ル様皆様ノ義心ニ愬ヘ懇願スル次第デアリマス。
 昭和十年十月

  発起者 愛知県尾西連合方面委員連盟丹羽郡支部
  後 援 丹 羽 郡 各 町 村 役 場
      丹羽郡各町村方面事業助成会


    十坪住宅建設資金募集方法
一、金額随意
   別途愛国献金袋二人レテ最寄リノ町村役場戎ハ愛
   知県方面委員宅ニオ差シ出シ下サイ
一、募集期間 昭和十年十一月十日迄
一、義金処分方法 岡山県長島愛生園内ニ「同胞の家」
   建設
   命名ハ未定デアリマスガ「愛知丹羽寮」トシタイ
   ト思ヒマス

      (丹羽郡旧楽田村役場文書「方面委員ニ関スル発来翰綴」
       昭和九年―、犬山市楽田出張所所蔵)






 「無癩府県運動」(長島愛生園事務官 ※※※※)
一九三六年(昭和十一)六月  .


   無癩府県運動
事務官 ※※※※ .

 近時「無癩府県」なる快適の新熟語が、盛に流布喧伝せられ、之が実際的運動亦漸次熾烈ならむとしつゝあるは愉快である。
 今後救癩事業の進展に伴ひ、現在各府県に亘つて、分布せられてゐる癩が、軈て何れかの日に、その隻影をだに認めざるに至る府県の現はるべきは、当然である。唯問題は、何れの府県が、果してこのゴールに、先着すべきかに懸る。
 癩に関する諸統計の示す全国各府県癩分布の濃度は、種々様々である。而して、癩濃毒地なる刻印を打たれてある府県が、先づ以て、最も真剣に、最も熱烈に、この運動に驀進すべきは、必至の勢と謂はねばならぬが、事実は必ずしも、さうでないやうである。結局は、各府県に於ける当事者たる人の問題のやうである。救癩事業に対して、理解深き人、熱意ある人を持つ府県が、その癩分布の濃淡如何に拘らず、本運動の先駆となり、中心となつて来てゐるやうである。
 政府には、癩根絶二十年計画なるものがある。併し之では、甚だ手緩しとて、更にその年限を短縮すべしとの要望が、救癩事業関係者の間に叫ばれつゝあるのも、事実である。
 愛知県に於ては、癩根絶五年計画なるものが樹立せられ、挙県一致其の目標に向つて、着々歩武を進められつつある。この運動の計画と進行の中心として活躍せられた畏友岡本前同県衛生主事の努力、福田前衛生課長の理解は、銘記すべきである。而して篠原知事を始め、関係諸官、就中社会課の協力も亦、没却すべからざる事実である。
 爾余の各府県に於ては、敢て愛知県に遜色を見ざる熱誠を以て、救癩事業に尽瘁せられ、顕著なる成績を挙げつゝある向もあるけれども、吾人は猶斯の如き具体的計画のありや否を知らない。
 併し、計画は目的ではない。目的達成の一手段に過ぎない。要は、如何にして、救癩事業の目的即ち「無癩府県」実現の目的を、どの程度まで速に達成すべきかに存する。
 無癩府県実現の日や何れ。無癩実現の府県や何処。而して又無癩国日本の出現や、果して如何。
(『愛生』第六巻第六号).





「ハンセン病の記録 〜ハンセン病と共に・偏見差別のない愛知を求めて〜」(愛知県健康福祉部健康対策課編集 二〇〇四年三月 愛知県発行)一三五頁から


  愛知県の無癩運動に就て

    (前半省略)

   ○愛知県無癩運動の動機及結果

 兎に角熱田署管内及知多方面の浮浪者の減少は著しきものがある。これは昭和九年以来衛生当局と方面委員団体との密接なる提携による啓蒙運動に瑞を発し、当時愛生園医官たりし林文雄博士は一ノ宮市其他の各市に於て熱弁を奮い、岡本衛生主事の努力奮闘と大石社会主事の協力は偉大なる結果を齎らした。彼等の主張は十坪住宅を建設し一戸平均五人を収容するときは当時現住した四百人の癩を収容するには八十棟即ち八百坪の住宅を国立癩療養所に寄附して全部療養所に収容し、国庫によつて比四百人を救助すべしと云う計画であつた。此を名づけて無癩県運動と云い、全国の教癩事業を風靡するの観があつた。
 此運動により十一棟、一四一坪二・五を拡張し昭和十二年春岡本衛生主事兵庫転任により寄附は下火となつたが尚此三月豊橋市を中心とする三河東部より一棟の寄附があつた。

  方面委員の療養所訪問
 昭和九年から昭和十二年にかけて岡本大石両主事の勧誘により愛知県方面委員の愛生園訪問団が組織せられて救癩事業の認識を高めると同時に郷里に於て二階や物置に閉寵められ日の光をも拝む事の出来なかつた患者が続々と救われた。其患者の兄弟や縁者からも病人が発見せられた。斯くひどくなる迄よくも学校にもやらずに秘め匿したものである。比の秘め匿した患者から知らず識らずの内に其村の子供達に病毒が撒き散らされてあつた事を思うとき慄然として膚に粟を生ずるを禁じ得ないものがある。此運動が始まつて百四十一坪二合五勺の十坪住宅が出来て、これが為めに費された金は八千四十九円二十二銭に過ぎない。併しこれによりて予防救済せられた人命は其価値に於て計る可かざるものがある。

  十坪住宅運動の救癩運動
 山方、村島、福田諸氏が衛生課長として全生病院の拡張に尽力せられ我等大に感謝を捧げた所であるが次に岩塚林高寺住職本田恵孝氏が三十年前から約十年に亘り、全生病院に教誨師として大谷派本願寺から派遣せられ、同院の真宗信徒に強固なる信念を布植し、郷里より堅信の病者を呼寄せ、又草津説教所を管理し、大谷派光明会の先駆をなした事は仏教徒として殊勝の事であつた。
 次に亀崎の方面委員西川伝承氏は天台宗の僧侶であるが貧困癩患者の相談に応じ、常に県庁と連絡して知多地方の患者を全生及愛生に送致せられた功績は忘れる事が出来ない。
 次に癩の多い碧海の旭村に教鞭を取り、熱心なる希望社社員として昭和二年以来救癩運動に熱中せる岩瀬氏の手引によつて愛生園に入園した患者も数十に達するのである。氏は常に患者と同車して送つて来るのであるが、或時母子二人の癩患者を汽車に乗せ、自分は急用の為めに附添わなかつた。処が患者は岡山駅にたどりついたが、急に厭世観に陥り某夜朝日川に投身した。翌朝母子の屍体検視を遂げた処、懐から林文雄博士に宛てた岩瀬君の紹介状が出たので癩と云う事が判かり皆んな色を失つた。爾来岩瀬君は必ず患者に附添うて来た。併し汽車賃払うでもなし、誠に気の毒であつた。氏の熱心は常に我が徒を励ました。其後同氏との消息を絶つたが、上京して再び教育事業に従事したとの事であつた。

    結   論

 内地に残遺する七千人の癩を内地人口七千万人とすれば一万人対一人にあたる。愛知県人口二百八十六万二千七百一人(昭和十年)癩患者現在三百六十人即ち一万人対一、二六人は平均数を少しく超過するのみである。又名古屋市にあつては人口百二十万に対し九十一人即ち一万人対〇七五人に過ぎず更に危険なしと云うものあれば過れるも亦甚だしき事である。人口稠密の処は病者と健康者接触面が広く、病菌に対する抵抗力の薄弱なる人殊に幼児老人貧窮者も従つて多い訳である。都会の癩者に其処を得しむる事は医家及理事者の重大なる責務である。これは単に当局に一任して顧みざるが如きは文明人としての耻である。
 当局者は多年の経験によりて水も漏さぬ調査が出来て居る事と信ずる。併し日々病毒に曝されたる家族及同居者の初期の病症及偶然不明の伝染を受け外来に診を乞う者の如きは如何なる警察力を以てするもなかなか発見するに難いのである。警察は医師の届出後の患者か、若くは家居多年、近隣の噂により検診したものであるから比較的重症である。大学外来に於ては常に新患者が愛知県以外の近隣県からも来るのであるから、新伝染の実例を日々に見るので、警察調査の数よりも遙に多数を想像するのである。孰れにしても危険期に達したるものは医師及警察は協力して療養所に入院せしめる車が緊要である。殊に癩は十九才以前に約半数発病するものなる事は各療養所の発病統計に於て一致する処である。斯の如き初期に治療をなすは最も有効であると同時に癩療養所の生活を勧誘し、入院せしむるときは予防消毒の概念を注入せられ家旅及周囲に向つて遠慮の念を生じ、将来の善処に役立つものである。此時期にほ本人に経済上の責任が軽い事も療養所生活に身を委ねる適当な時期である。
 従来癩療養所の収容力は甚だ貧弱であつた。目下七千五百人の収容力に過ぎないけれども、政府は二千六百年の記念として一万人の収容力の計画を実現する。其暁には愛知か岐阜か三重に国立癩療養所が設立せらる事になる。其時は愛知県の先輩が多年希望して己まなかつた無癩県の計画が可能となつて来るのである。差当り草津国立療養所楽泉園とか全生病院とか、長島愛生園は愛知県の患者を歓迎するものである。又此県の衛生課長として栃木県、熊本県に於て癩の予防事業の為めに敏腕を振われたる斎藤俊雄氏の居られる事は人心を強うするものである。時局多端の折柄であるけれども、愛知県によつて最も先きに主唱せられたる無癩県運動を継続せられん事を希望するものである。今回は名古屋帝大医学部の田村大学長、長松教授、清水圭三博士等の主唱により名古屋恵楓会が設立せられ、癩の啓蒙運動が開始せられ癩に関する正しき認識、相談、慰安、癩療養所の設立促進等の目的を達せんと努力せられつつあるは誠に時宜を得たる企てと大に慶賀の至りに堪えない次第である。何卒是まで先輩によつて開拓せられた、熱心なる数百の方面委員諸君県下二千六百人の医師と左提右撃して、無癩運動に邁進し、其徳を遠く隣県に迄及ぼされん事を希望して己まないものである。終に臨み最近統計を恵まれたる斎藤課長及発表の機会を与えられたる恵楓会の諸氏に敬意を表するものである。
昭和十四年四月  .
(愛 生) .



二〇一二・九・一六 登載
【参考資料集】
愛知の無癩県運動歴史資料 ≪ページ先頭へ≫
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