近衛文麿の上奏文
昭和二十年二月十四日拝謁上奏 敗戦(此の敗戦の言葉は言上の時危機に改められたりと)は遺憾ながら最早必至なりと存候。以下此の前提の下に申述べ候。
敗戦は我国体の一大瑕瑾たるべきも、英米の輿論は今日迄の所国体の変更とまでは進み居らず(勿論一部には過激論あり。又将来いかに変化するかは測知し難し。)随つて敗戦だけならば、国体上はさまで憂ふる要なしと存候。
国体護持の立前より最も憂ふべきは敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候。つらつら思ふに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向つて急速度に進行しつゝありと存候。即国外に於てはソ聯の異常な進出に御座候。我国民はソ聯の意図を的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち二段革命戦術採用以来、殊に最近コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向顕著なるが、これは皮相安易なる見方と存候。
ソ聯が、窮極に於て世界赤化政策を捨てざる事は、最近欧洲諸国に対する露骨なる策動により、明瞭となりつゝある次第に御座候。ソ聯は欧洲に於て、其周辺諸国にはソヴィエット的政権を樹立せんとて、着々其工作を進め、現に大部分成功を見つゝある現状に有之候。
ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座候。波蘭に対しては、予めソ聯内に準備せる波蘭愛国者聯盟を中心に、新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。羅馬尼、勃牙利、芬蘭に対する休戦条件をみるに、内政不干渉の原則に立ちつゝも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上ソヴィエット政権に非ざれば存在し得ざる如く強要致し候。イランに対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致し候。瑞西がソ聯との国交開始を提議せるに対し、ソ聯は瑞西政府を以て親枢軸的なりとて一蹴し、之が為外相の辞職を余儀なくせしめ候。
米英占領下の仏蘭西、白耳義、和蘭に於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と、政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は何れも、政治的危機に見舞はれつゝあり。而して是等武装団を指導しつゝあるものは、主として共産系に御座候。
独乙に対しては、波蘭に於けると同じく、已に準備せる自由独乙委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは英米にとり、今は頭痛の種なりと存ぜられ候。
ソ聯はかくの如く、欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場をとるも、事実に於ては極度の内政干渉をなし、国内政治を親ソ的方向に引きずらんと致し居り候。ソ聯のこの意図は、東亜に対しても亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野を中心に、日本解放聯盟組織せられ、朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。
かくの如き形勢より推して考ふるに、ソ聯はやがて日本の内政にも干渉し来る危險充分ありと存ぜられ候。(即ち共産党公認、共産主義者入閣――ドゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く――治安維持法及び防共協定の廃止等々。)
翻つて国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件日々具備せられ行く観有之候。即ち生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一部の革新運動、之に便乗する所謂新官僚の運動、及び之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
右の内特に憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものゝ如く、軍部内革新論の基調も亦こゝにありと存じ候。皇族方の中にも此の主張に耳傾けらるゝ方ありと仄聞いたし候。職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは共産的主張を受け入れ易き境遇にあり。已に彼等は軍隊教育に於て、国体観念丈は徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は国体と共産主義の両立論を以て彼等を引きずらんとしつゝあるものに御座候。
抑々満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、是等軍部一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと存じ候。満洲事変当時、彼等が事変の目的は国内革新にありと公言せるは有名なる事実に御座候。支那事変当時も、「事変は永引くがよろし。事変解決せば国内革新は出来なくなる。」と公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。是等軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり。)は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なしと存じ候。此の事は過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思ひ当る節々頗る多きを感ずる次第に御座候。不肖は此の間二度迄組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を充分に看取する能はざりしは、全く不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
昨今戦局の危急を告ぐると共に、一億玉碎を叫ぶ声次第に勢を加へつゝありと存じ候。かゝる主張をなす者は所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつゝあるは、之によりて国内を混乱に陥れ、遂に革命の目的を達せんとする共産分子なりと睨み居り候。
一方に於て徹底的英米撃滅を唱ふる反面、親ソ的空気は次第に濃厚になりつゝある様に御座候。軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひてもソ聯と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又延安との提携を考へ居る者もありとの事に御座候。
以上の如く国の内外を通じ共産革命に進むべきあらゆる好条件が、日一日と成長致しつゝあり、今后戦局益々不利ともならば、此の形勢は急速に進展可致と存じ候。
戦局の前途につき、何等か一縷でも打開の望みありと云ふならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存じ候。随つて国体護持の立場よりすれば、一日も速かに、戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕り候。
戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来今日の事態にまで時局を推進し来りし軍部内のかの一味の存在なりと存じ候。彼等は已に戦争遂行の自信を失い居るも、今迄の面目上、飽く迄抵抗可致者と存ぜられ候。もし此の一味を一掃せずして、早急に戦争終結の手を打つ時は、右翼左翼の民間有志此の一味と響応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。従つて戦争を終結せんとすれば、先づ其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。此の一味さへ一掃せらるれば、便乗の官僚並に右翼左翼の民間分子も声を潜むべく候。蓋し彼等は未だ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達せんとするものに外ならざるが故に、基本を絶てば枝葉は自ら枯るゝものと存じ候。
尚これは少々希望的観測かは知れず候へ共、もし是等一味が一掃せらるゝ時は、軍部の相貌は一変し、英米及重慶の空気或は緩和するに非ざるか、元来英米及重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変りその政策が改まらば、彼等としても、戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はれ候。それは兎も角として、此の一味を一掃し軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候。以上 (公自筆和紙八枚)
《「情報天皇に達せず 下巻」(細川護貞著 同光社磯部書房 昭和二八年)より引用しました。》
註
波蘭(ポーランド)
羅馬尼(ルーマニア)
勃牙利(ブルガリア)
芬蘭(フィンランド)
瑞西(スイス…スウェーデン〔瑞典〕?)
仏蘭西(フランス…佛蘭西)
白耳義(ベルギー)
和蘭(オランダ)
独乙(ドイツ…獨逸)
モスコーより来れる岡野(岡野進…野坂参三のこと)