精神病者私宅監置ノ実況(一九一八年)


  精神病者私宅監置ノ実況

内務省衛生局    .




本篇ハ東京帝国大学医科大学教授医学博士呉秀三氏ガ「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」ト題シ最近発表サレタルモノナルガ精神病者私宅監置ノ実況ヲ知ルノ資料トシテ極メテ有益ノモノト認メラルルニヨリ請フテ印刷ニ附スルコトトセリ

 大正七年七月
保健衛生調査室  .






自 序
精神病者ハ自カラ知ラズ自カラ救フ能ハザル疾患ニ羅リ、其境遇ニ於テ最愍ムベキモノタルノ一方ニ於テ、社会ノ秩序ヲ危クシ公衆ノ安寧ヲ破ラントスル危険ナル証状ヲ呈スルモノナレバ、一面之ヲ救済シ一面之ヲ保護スルハ、吾人ノ責任ニシテ又吾人ノ義務ナリ。而カモ斯ノ病タル決シテ不治ノモノニアラズ。之ヲ恰好ノ時機ニ於テ入院セシメ、適当ノ治療ヲ加フルナラバ、其治癒スベキモノヽ尠カラザルコトハ、他種疾患ニ比シテ何等逕庭ナキモノトス。之ヲ以テ欧米ニ於ケル諸文明国ニアリテハ国家又ハ公共団体トシテ之ニ対スル制度・施設ヲ整ヘ、多数ノ病者ヲ収容シ、以テ之ニ十分ナル看護・救療ヲ加ヘ博愛慈惠ノ道ヲ尽スト与ニ、社会ノ秩序ヲ保チ、公衆ノ安寧ヲ謀ルニ心力ヲ傾注スルナリ。我邦ニ於テハ既ニ精神病者監護法ノ施行アリテ、病者ノ法律的地位ハ擁護セラルト雖モ、実学的見地ニ立チテ病者ノ実際ニ於ケル救治方ヲ観察スルトキニハ頗ル遺憾ニ堪ヘザルモノ多々之アルヲ認ム。蓋シ方今我邦ニ現在スル精神病者ノ数ハ凡ソ十四五万ノ多数ニ及ブベキモ、之ガ治療・保護ニ当ルベキ官公立精神病院ハ寔ニ少数ニシテ、其収容スル患者数ハ、之ヲ其全数ニ比スレバ、実ニ九牛ノ一毛タルノ観アリ。而シテ一面是レガ代補ヲナシツヽアル私立精神病院ノ収容率モ亦僅少ニシテ、此官公私三者ヲ合スルモ猶ホ漸ク約五千人ヲ収容シ得ルニ過ギズ。サレバ残余約十三四万人ノ多数ナル病者ハ、監護法ノ定ムル所ニヨリ之ヲ私宅監置室ニ監置シ、或ハ神社・仏閣ニ於ケル祈祷・禁厭・灌瀧等ニヨリ、或ハ民間流布ノ療方ヲ以テ処置セラルヽナリ。余ハ東京帝国大学医科大学精神病学教室主任トシテ、此等病院以外ニ於ケル処置治療ノ果シテ能ク病者保護ノ方法ヲ得ルヤ否ヤ、医学的療養ノ目的ヲ達シ居ルヤ否ヤヲ知ラント欲シ、明治四十三年ヨリ大正五年ニ至ル間、暑中休暇ノ都度、教室勤務ノ助手・副手(十五人)ヲ一府十四県ニ派遣シ、是ガ実地状況、殊ニ私宅監置ノ実況ニ就キ調査セシムル所アリタリ。本著ハ即チ之ガ報告ヲ綜括シテ記述セシモノニシテ、册中多数ノ実例ニ添加セル幾多ノ写真図ハ惨澹タル監置室ノ光景、不完全ナル民間療法ノ実景ヲ真直ニ語ツテ、読者ヲシテ思ヒ半バニ過ギシムルモノアラン。病院以外ニ於ケル処置ノ甚悲惨ニシテ、人ヲシテ傷心ニ堪ヘザラシムルモノアル所以ハ、一ニ病者ノ保護・治療ニ関スル法律並ビニ施設ノ大ナル欠陥ニ原因スルモノニシテ、博愛・慈善ヲ旨トスル人道上ヨリ之ヲ観ルモ、将又、公安維持ノ点ヨリ之ヲ論ズルモ、之ガ制度ヲ改善シ、設備ヲ整頓スルハ刻下緊急ノ要務ト謂フベシ。況ンヤ我邦精神病者ノ数ガ年ヲ逐フテ増加シテ止マラザルハ、諸統計ニ徴シテ明白ナル事実ト認ムベキニ於テヲヤ、又況ンヤ册中所掲ノ統計表ノ指示スルガ如ク私宅被監置者ノ多数ハ「無辜ノ窮民ニシテ医薬ノ給セラレザルモノ」ナルニ於テヲヤ。幸ニシテ最近ノ国情ハ此問題ノ解決ニ向ツテ其端緒ヲ開キ始メタルモノヽ如ク、政府当局者モ既ニ精神病者ノ保護・救済ノ改善ニ関シ画策シツヽアル所アリト聞ク。是レ吾人ガ衷心ヨリ欣ビ翹首シテ其具体的実現ヲ期待スル所ノモノニシテ、吾人ハ政府ガ速カニ進ンデ国立精神病院ヲ建設シ、且ツ全国ニ向ツテ公私立精神病院ノ設立ヲ獎励シ、更ニ精神病者監護法ノ改正ヲ施サンコトヲ希望シテ已マザルナリ。然レドモ精神病者ノ保護・救療ハ其関係スル範囲ノ広クシテ社会各方面ニ亙ル一大問題ナレバ、其解決ハ啻ニ之ヲ官庁ノ力ニ俟ツノミナラズ、マタ斯病ト直接・間接ニ連繋アル事業ニ従フモノヽ熱心ナル協心戮力ニ依ラザルベカラズ。此ノ如クシテ初メテ、ヨク之ヲ大成シ得ベキモノナリト信ズ。吾人ガ茲ニ此著ヲ公ケニシ、殆ンド見ルニ堪ヘザル程・悲惨ナル光景ヲモ写シ出シテ諸君子ノ清鑒ヲ汚ス所以ノモノモ亦此意ニ他ナラズ。吾人ハ博愛ナル諸君子ガ人生ニ於ケル最不幸ナル病者ノ為メニ同情ヲ垂レ、制度・施設ノ改善・速成ニ対ツテ尽力アランコトヲ切望シテ已マザルモノナリ。之ヲ序卜為ス。

 大正七年六月二十五日
医学博士 呉   秀  三 識 .






目次
第一章 緒論
第二章 精神病者私宅監置ノ実況
 第一節 総説
 第二節 精神病者私宅監置ノ実例(百五例、写真六十六
      葉、附図七十個)
第三章 未監置精神病者ノ家庭ニ於ケル実況(十例)
第四章 民間療方ノ実況
 第一節 総説
 第二節 神社仏閣ニ於ケル処置、水治方及ビ温泉場ノ実
      例(髙雄山・中山・原木・龍爪山・大岩山・
      定義温泉(写真十四葉、附図二個)
 第三節 精神病ノ民間薬及ビ迷信薬
 第四節 精神病者運輸方ノ実況(写真五葉)
第五章 私宅監置ノ統計的観察(統計十五表)
 第一節 総説
 第二節 男女
 第三節 年齡
 第四節 資産
 第五節 職業
 第六節 監護義務者
 第七節 監置ノ理由
 第八節 監置ノ経過
 第九節 監置室
 第十節 被監置者ノ状態
 第十一節 家人ノ待遇
 第十二節 医療
 第十三節 精神病ノ種類
 第十四節 警察官ノ観察臨検回数
第六章 批判
 第一節 私宅監置ニ対スル批判
 第二節 公立ノ監置室ニ対スル批判
 第三節 精神病者監護法ニ対スル批判
 第四節 民間療方ニ対スル批判
第七章 意見
第八章 概括及ビ結論






精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察

附。民間療方ノ実況等(写真八十五葉、附図七十二個、統計十五表) .


東京帝国大学医科大学精神病学教室  .
医学博士 呉   秀  三 .
医 学 士 樫 田 五 郎 .



   第一章 緒  論

 精神病者ノ処置ハ洋ノ東西ヲ問ハズ、徃古ヨリ近代ニ至ルマデ冷酷ニシテ殊ニ西洋ニ於テソノ甚シキヲ見タリ。西洋ニ於テモ嘗テ精神病ヲ以テ業報トシ又ハ妖魔ノ所為トナシ、斯ル迷信ヨリシテ精神病者ガ社会一般ヨリ甚キ虐待ヲ受ケ、政府有司モ之ニ誤ラレテ精神病者ヲバ罪人ト同ク監獄ニ投ジ、之ヲシテ不幸酷遇ノ為ニ暗窓ノ下ニ呻吟セシメシコト数百年。千七百九十二年仏ノピ子ル氏ガビセートル病院ニ於テ鉄鎖撤廃ニ著手シ、次デ千八百三十九年英ノコノリー氏ガハンウェル病院ニ於テ強制器具ノ使用ヲ禁ゼシ以来、不拘束主義(Non-Restraint-System)ハ漸次ニ伝播シテ遂ニ完全ナル発達ヲ遂ゲ、現今欧米諸国ニ於テハ多数ノ完備セル公私精神病院アリテ無隔離療方・村落療方・家族療方等ノ実施セラルルニ至リタリ。
 我邦ニ於テハ、古クヨリ精神病ヲ以テ一ノ疾病ト看做シタレバ、精神病者ニ対スル処置モ欧洲ニ行ハレタルガ如キ残忍暴虐ナルモノ無カリシト雖モ亦甚冷疎タルヲ免レザリキ。古来我邦ニハ精神病者ヲ収容スベキ公共施設ノ備ハリタルコトナク、病者ノ治療看護ハ皆私人ノ欲スル所ニ従ツテ之ヲ行ヒ、医師ノ治療・僧侶神官ノ祈祷禁厭・水治方・民間流布ノ療方其他各個任意ノ処置等アリタリ。靜穩ナル患者ハ之ヲ放置シテ、偶々監護監督セザルモアリ、躁暴ナル患者又ハ自他ニ対シ危険ナル症状ノアル患者ハ桎梏鎖鑰ニヨリテ強制セラレタリ。徳川時代ニ至リテハ寛政以降、永井・武田。石丸。本田。奈良林等ノ諸医家ハ病院又ハ其ニ類似ノ設備ヲナシ以テ患者ノ治療収容ニ努メタリキト雖モ、世間ノ大勢ハ猶、奮套ヲ墨守シテ之ニ満足スルモノヽ如ク。明治年間ニ入リテモ患者ノ待遇ハ甚疎畧ニシテ、明治十二年今ノ東京府巣鴨病院ノ前身タル東京府癲狂院ノ創立ヲ見シ当時ニ於テスラ、治療看護上ノ処置ハ甚不完全ニシテ患者ニ三食ヲ給スルヲバソノ主務ヲセルモノヽ如ク、之ヲ厭制シ之ニ桎梏ヲ施シ、極端ニ云エバ動物ノ飼養ニモ似タルモノアリタリト云フ。其後中井院長ノ代トナルニ及ビテ明治十四年頃ニハ不拘束療方開始ノ形迹ヲ認メ。明治二十年榊教授ノ東京府巣鴨病院医長トナルニ及ビ、患者ノ待遇ハ治療方ノ変化ト共ニ大ニ開放的トナリタルガ、然カモ今日ノ見地ヨリスレバ尚多少拘束的ナルモノアルヲ見タリ。之ヲ要スルニ、明治二十年前後ニ於ケル精神病者ニ対スル処置ハ、公立病院及ビ私立病院ニ於テモ、明治初年ニ比シテ大ニ改良発達シタリト雖モ民間ニ於ケル処置ハ依然頑陋酷薄ニシテ旧態ヲ脱セザリシノミナラズ、家庭ニ於ケル軋轢紛争ハ間々名ヲ精神病ニ藉リテ不法監禁ヲ行ヒ、被監禁者ノ権利ヲ蹂躙シ、或ハ資産ヲ偸取スル如キモノモ少カラザリシ如ク。彼ノ明治二十五年ニ於ケル相馬事件ノ如キハ不法監禁ニ関スル疑獄ノ最著名ナルモノトス。蓋当時マデ精神病者保護ニ関スル行政庁ノ命令ハ、東京府ニ於テハ明治十一年以降数次布達セラレ、他府県ニ於テモ之アリシモノヽ如クナレドモ、之ニ関スル一定ノ法律ハ未ダ之アラザリシナリ。相馬事件以来精神病者保護ニ関スル法律制定ノ必要屡々官民ノ間ニ唱ヘラレ、遂ニ明治三十三年三月九日法律第三十八号ヲ以テ精神病者監護法ノ発布セラルヽヲ見ルニ至リ、其法律ハ同年七月一日ヨリ施行セラルヽコトヽナレリ。今此法律ノ内容ヲ摘録スレバ、精神病者ノ看護ハ患者ノ後見人・配偶者又義務者・親族又ハ戸主ヲシテ其義務ヲ負ハシメ、其等ノ人ハ行政庁ノ許可ヲ得テ精神病者ヲ監置スルヲ得ルモ此以外ノ者ハ之ヲ監置スルコトヲ得ザルコトヲ定メ(費用ハ被監護者又ハ其扶養義務者ノ負担トス)、義務者無ク又ハ義務者アルモ其義務ヲ履行スル能ハザルトキハ患者ノ住所地又ハ所在地ノ市区町村長ニ於テ監護ノ義務ヲ負フモノト定メ(費用ノ支弁又ハ追訟ハ行旅病人及ビ行旅死亡人取扱法ヲ準用)、又行政庁ハ監置ヲ許可シ、監護義務者ヲ改易シ、又監護ノ方法及ビ場所ノ変更ヲ命ズルモノナルコトヲ規定シ、猶是等ニ関シ不法不正ノ行為アルトキ之ニ対スル罰則ヲ規定シタリ。猶又、此法律ハ私宅監置室・公私立精神病院及ビ公私立ノ精神病室ハ行政庁ノ許可ヲ受クルニアラザレバ之ヲ使用スル能ハザルコトヲ規定シ、其病室ノ構造設備及ビ管理方法ニ関シテハ別ニ之ヲ定メタリ。尋ギテ同三十三年六月二十九日敕命第二百八十三号ヲ以テ、市区町村長ニ於テ精神病者ヲ監置スル場合ニ於ケル規定ヲ公布シ、此場合地方長官ノ認可ヲ受クベキコト(急迫ノ場合ニハ、其認可ナキモ警察官署ノ同意ヲ得レバ三十日間、其同意ヲ得ザルモ七日以内ハ仮ニ監置シ得ルコト)等ヲ規定セリ(此事項ハ同三十四年三月東京府ニ於テハ警視庁訓令ヲ以テ、警視総監ノ認可ヲ受クルニ及バザルコトヽナレリ)。猶同三十三年六月二十八日ニハ内務省ニ於テ省令ヲ以テ精神病者監護法施行規則ヲ発布シ、監護ニ関スル種々ノ手続ヲ規定セルガ、其第八条ニハ私宅監置室ニ関スル規則ヲ挙ゲ、精神病者ノ資産又ハ扶養義務者ノ程度ニ応ジ相当ノ構造設備ヲナシ及ビ之ヲ管理スルコトヲ要スト規定セリ。
 本論文ノ主題タル私宅監置ト云フ名称モ、前掲ノ如ク此法律ノ条項中ニ現ハシタルモノニシテ、監置ナル語ノ疑義ニ関シテハ後ニ(第六章第二節)論ズル所アラントスルモ、之ヲ概言スレバ、私宅監置トハ、精神病者監護法ニ基キ、私人ガ行政庁ノ許可ヲ得テ、私宅ニ一室ヲ設ケ、精神病者ヲ監禁スルヲ云フナリ。
 此法律ニヨリ精神病者ノ法律上ノ保護ハ初メテ確立シ、私宅ニ於ケル精神病者ノ待遇モ従前全ク私人ニ放任セラレシ時代ニ比スレバ大ニ面目ヲ改メタリト云フベク、我邦ノ精神病者ノ保護ハ之ニヨリテ一大進歩ヲナシタリト謂ハザルベカラス。然ルニ之ヲ他方ヨリ観察スレバ、此法律ノ主旨ガ精神病者ノ法律上ノ保護殊ニ其不法ナル監禁等ヲ禁制スルニ偏局シテ、更ニ精神病者ノ待遇ヲ衛生上又ハ社会上方面ヨリ観察シテ、之ヲ擁護セントスル旨趣ヲ忽諸ニ附シタルハ遺憾ト云フベシ。
 我邦ニ於ケル対精神病者処置ハ幾多ノ変遷ヲ経テ以テ目下ノ情況ヲ呈スルニ至レリ。今最近ニ於ケル其一般状況、就中、病者ノ数・病院ノ設備・病者ノ処置等ニ就テ之ヲ観察スルニ、病者ノ数ハ逐年遞昇的ニ増加スル傾向アリ。明治三十八年乃至大正四年ノ統計ヲ見ルニ道府県ノ精神病者ノ総数ハ明治三十八年ニハ二万三千九百三十一人ナリシモ、同四十三年ニハ二万八千二百八十五人トナリ(一・一八倍)、大正四年ニハ四万千九百二十人トナレリ(一・七五倍)。是即、十二年間ニ一倍半以上ニ増率セルモノナリ。此間ニ於ケル精神病者ト人口トノ百分比例ヲ見ルニ〇・〇五〇(明治三十八年)ヨリ〇・〇七五(大正四年)ニ上ガリタルナリ。之ヲ吾人ガ欧米其他各国ノ諸統計ニ徴シ、其ガ平均数〇・二五三四%(人口三百九十五ニ対シ精神病者一ノ割合)ヲ獲タルモノト比較シ、或ハ人口三百乃至五百ニ対シ一人ノ精神病者存スト称セラルルニ対照スレバ誠ニ少数ト謂ハザルベカラズ。是恐ラク一ニ我邦統計ガ粗漏ナルノ致ス所ニシテ其実際ノ数ハ之ヲ吾人ノ統計ヨリ概算スレバ、道府県ノミニテモ少クトモ十四五万人ヲ超ヘザルベカラズ。既ニ昨大正六年内務省保健衛生調査会ハ道府県ニ就キ精神病者及ビ其疑似者ヲ調査シ、第一回ノ統計ニ於テ六万四千九百四十一人(同年六月三十日現在)ヲ挙ゲ得タリ。今此数ヲ以テ大正四年統計ノ指示スル数ニ比較スレバ、実ニ二万三千八十人即チ其過半数ノ増加ヲ見ルモノニシテ、是ニ由リテモ調査ノ愈々精密トナルニ従ヒ、益々多数ノ病者ヲ発見シ得ルコトヲ知ルニ足レリ。
 翻テ一方我邦ニ於ケル精神病院或ハ精神病室ノ設備ノ如何ヲ見ルニ誠ニ寥落トシテ曉天ノ残星タルノ観ナクンバアラズ。今之ガ設備ヲ一瞥スルニ、公私立精神病院・官公立病院ノ精神病室・公立精神病者収容所及ビ私立精神病院ノ四者ヲ挙ゲ得ルモ、其病牀数ハ何レモ僅少ナルモノトス。左ニ少シク之ヲ述ブレバ、公立精神病院トシテ真ニ精神病者ノミヲ収容スル規模ノ稍々大ナルモノハ纔ニ一ノ東京府巣鴨病院アルノミニシテ、其病牀数ハ自費公費ヲ合シテ四百四十六牀トス。区立凾館精神病舎モ亦専ラ精神病者ヲ収容スト雖モ三十四牀ヲ有スルニ過ギザルナリ。次ニ官公立病院ノ精神病室ヲ挙グレバ帝国大学医科大学・府立医科大学・医学専門学校ノ附属医院ノ精神病室・県・区・町立病院ノ精神病室及ビ植民地ナル朝鮮総督府医院ノ精神病室以上合計十八箇所ノ病牀数僅々四百牀未満ニシテ、此他猶、監獄及ビ陸海軍所属ノ病院ニ於ケル精神病室ノ在ルアリト雖モ其患者収容力ハ寔ニ微弱ナルモノトス。次ニ公立精神病者収容所トシテ挙ゲ得ベキモノヽ大部分ハ行路病者収容所内ノ精神病室ニシテ道府県ニ約十五箇所ヲ数ヘ、更ニ植民地ニテハ大邱(朝鮮)大連ノ慈惠医院ヲ挙ゲ得ベク猶一二ノ県ニ於テハ伝染病隔離病舍内ニ精神病者ノ収容セラレヲル所モアリ。是等ノ病牀数ハ約二百牀ナリ。即知ル、現時我邦ニ於テ精神病者ヲ収容シ得ル公共機関ノ総病牀数ハ僅ニ約一千牀ニ過ギザルコトヲ。而シテ此官公立施設ノ不備ハ刻下ノ状況ニ於テハ一方纔ニ私立精神病院ニ依リテ之ガ代補ヲ行ヒ、精神病学上ノ治療ヲ営ムモノトス。今私立精神病院ノ数ヲ全国ニ求ムルニ凡、三十七院アリテ其病牀数ハ約四千牀ナリ。即、官公私三者ノ施設ノ有スル総病牀数ハ合計約五千牀ニシテ、是トテモ自費患者牀ノ多数ヲ加算シタルナリ。若シ夫レ施療患者ノミニ関シテソノ数ヲ計算スレバ此少数ノ官公私立病院又ハ病室ニ収容セラレタル施療患者ノ他ニ、市区町村長ガ監護義務者トナリテ公私病院ニ委託セル所謂委託患者及ビ更ニ同長ノ監護扶養スル私宅監置患者ヲ加フルモ、尚全国ニ於テ約二千人ヲ数エ得ルノミナリ。是ニ由テ之ヲ観レバ全国十四五万ノ精神病者ニ対シテ吾人ノ有スル収容機関ノ収容率ハ約三・六%乃至三・三%ニシテ其施設ハ実ニ甚シク不備ナリト謂ハザルベカラズ。
 此ノ如クニシテ我邦ニ於ケル最大多数ノ精神病者十三四万五千人ハ公私ノ精神病院ニ収容セラルヽコトナキニ彼等ハ果シテ如何ナル処置ヲ以テ遇セラルヽカ。之ヲ観察スルニ其処置ハ大別シテ之ヲ三種トナスヲ得ベシ。第一種ハ私宅又ハ一般病院ニ在リテ医療ヲ受クルモノ、第二種ハ私宅監置室ニ在ルモノ及ビ私宅ニ起臥スルモ監置セラレズ而モ医療ヲ加ヘラレザルモノ、第三種ハ神社仏閣ニ於テ祈祷・禁厭・水治方等ノ民間療方ヲ受クルモノトス。此内第一種ハ富裕者又ハ恆産アルモノニシテ、国民ノ少数ニ見ル所ナリ。第二種・第三種ハ民間最多ク行ハルヽ所ニシテ、資産中等以下ノモノニ多ク、私宅監置ト民間療方ト此二ツハ実ニ我邦ニ於ケル精神病者ニ対スル現代ノ代表的処置ナリト謂フベシ。
 顧フニ国民ハ国家ノ基礎ナリ。国家ハ須ク民心ノ向フ所ヲ知リ、欠陥ノアル所ヲ察シ、之ガ為ニ法ヲ立テ、又之ガ為ニ備ヲ施サヾルベカラズ。国家ノ精神病ニ対スル立法・施設ノ如キモ亦然ルベキモノナラズヤ。吾人ハ須ラク精神病者ニ対スル国内ノ実情ヲ知リ其現況ヲ弾究シ、法ノ適否・施設ノ完不完ヲ省察シ、時代ノ進歩ト共ニ之ガ改善ヲ促シ進歩ヲ計ルベキモノナリ。之ヲ将来ニ計画セントスルニ当リテハ必ズ之ガ基礎ヲ現代ノ実情ニ求メザルベカラズ。是ニ於テ吾人ハ我邦精神病者ノ処置ハ公私病院ニ於テハ医師ノ治療ト行政庁ノ監督トニ由ツテ稍々其緒ニ就クヲ得タリト雖モ私宅監置及ビ民間療法ノ如キハ果シテ能ク其目的ニ適シタル方法ニ由リテ指導サレ居ルヤ、之ニヨリテ能ク其道ヲ尽シ居ルヤ、国家行政庁ノ監督モ能ク行届キタリヤ否ヤ、之ヲ調査スルコト亦当面ノ急務ナリト信ジ、余(呉)ハ東京帝国大学医科大学精神病学教室主任トシテ、明治四十三年以降夏期休暇ノ都度教室勤務ノ助手・副手一名乃至数名ヲ各府県ニ出張セシメ、私宅監置ノ実地ノ旁ラ亦、民間療法及ビ未監置精神病者ニ就キテ其状況ヲ観察セシムル所アリ。而シテ大正五年マデニ一府十四県ノ視察調査ヲ遂ゲ得タリ。其実況ノ一少部分ニ関シテハ既ニ東京医学会創立二十五年祝賀論文第二集ナル「我邦ニ於ケル精神病ニ関スル最近ノ施設」中ニ記載セル所アリシモ、今茲ニ其全部ヲ一括シテ之ヲ報告セント欲ス。






   第六章 批 判

     第三節 精神病者監護法ニ対スル批判


 精神病者監護法ニヨリテ監督セラルベキ方面ハ二アリ。其一ハ病院ニシテ、其二ハ私宅監置ナリ。本法発布ニヨリ、精神病者ノ家庭ニオケル待遇ハ、之ヲ旧来ノ状況ニ比スレバ大ニ其面目ヲ改メ、擅ニ病者ヲ監禁拘束セシ悪習ハ其跡ヲ絶チ、又精神病院ニ於ケル設備・待遇モ亦改良セラルヽ所アリタリ、然レドモ同法ノ為メニ最惜ムベキ欠陥ハ同法ガ精神病者ヲ法律上ニ監督シ保護スルコトヲノミ眼中ニ置キテ、ソノ医療上ノ監督保護ニ関シテハ何等特別ノ条項ヲ制定セザリシニアリ。而シテ又同法ノ規定セシ手続条項中ニハ繁雜ニシテ時ニ過厳ニ失スル程ノモノアリテ之ガ為メ却ツテ病者ノ入院・治療・看護ヲ阻礙スルコトアルモ亦遺憾ナリ。抑々明治三十三年該法律制定当時ノ事情ヲ聞クニ同法ノ主眼トセシ所ハ、其時代ノ社会ノ状況ニ照ラシ、従来往々認メタル不法監禁ノ悪弊ヲ芟除シ、且ツ精神病者ヲ監護シ又之ヲ扶養スル義務者ヲ確定センコトヲ期シタルモノニシテ、病者ノ治療・医薬ノ方面ニ関シテハ特別ニ何等ノ規定ヲ設ケズ、全然之ヲ除外セシモノナリ。其当時内務省衛生局ニ於テ起稿セル同法ノ原案ハ、其内容殆ド全ク監獄法ト異ラザルモノナリシモ、其後中央衛生会会議ニ於テ之ヲ修正スルニ当リ、同会委員医学博士片山国嘉氏ハ、該案ニ病者ノ監護・治療ニ関シテ何等ノ規定ナキヲ遺憾トシ、之ニ関スル規定ヲ設ケテ之ヲ法文中ニ明記センコトヲ極力主張セリ。蓋シ同博士ハ精神病者ノ地位ヲ法律的ニ擁護スルト同時ニ、文明諸外国ニ行ハルヽ制度ニ則リ、該法ノ主体トシテ精神病院法ヲ制定スルヲ以テ最緊要ナリト信ジタレバナリ。又同委員会故法学博士梅謙次郎氏ハ同監護法原案ニ精神病者ヲ扶養スベキ義務者ニ就テ全ク何等ノ記載ナカリシヲ以テ之ヲ制定シテ、当時ノ民法ニ扶養義務者ニ関シ明確ナル規定ナキノ欠陥ヲ同時ニ補ハンコトヲ建議シ、梅博士ノ修正説ハ同会議ヲ通過シタルモ、片山博士ノ主張ニハ一人トシテ耳ヲ傾クルモノナク全然問題トナラズ、遂ニ之ヲ否定シ了リタリト云フ。此ノ如クニシテ此精神病者監護法ハ不完全ニ成立シタリ。其中ニ載セラレタル監置ナル文字モ主トシテ片山・梅両博士ガ協議シテ選択シタルモノニシテ、此二氏ノ意見トシテハ、該法ニヨリテ精神病者ヲ一定ノ場所ニ留置スルソノ処置ハ犯罪者ヲ監獄ニ監禁スルトハ其意味ニ於テ自ラ差異アルヲ以テ之ヲ監禁ト称スルヲ得ズ、又該法中ニハ病者ノ治療・保護ニ関スル条項ハ少シモ之ヲ明記セザルガ故ニ、彼処置ハ又之ヲ保護ト称スルヲ得ザルガ故ニ、結局已ムコトヲ得ズシテ、保護ト監禁トノ中間ヲ取リテ監置ナル文字ヲ選択シタルモノヽ如ク、又同法中ニ見ル監護テフ文字モ同様ニシテ定メラレタルモノニシテ、何レモ其中ニハ保護テフ意義ヲモ包容セシメンコトヲ期シタルナリ。サレバ監置テフ語ハ該法成立ノ初メヨリ、其意義甚明晰ナラザリシカバ、実際ニ監護法ヲ運用スルニ当リテモ、之ガ解釈ハ人ニヨリテ各々異ナリシハ已ムヲ得ザルコトナリ。アル人ハ之ヲ以テ監禁ト同一義ニ解シ、監置トハ病者ヲ治療スルコトニアラズ、之ヲ一定ノ場所ニ監禁シ、其自由ヲ奪ヒ、其行為ヲ束縛シ、之ニヨリテ、社会ノ安寧・秩序ヲ保ツニアリト称シ。又アル人ハ之ヲ解釈シテ、病者ヲ一定ノ場所ニ留置スルハ精神病者自身ニ対スル幸福ヲ目的トスルモノニシテ、監置トハ保護ノ義ニ他ナラズト称ヘタリ。尚ホ又監置ヲ以テ全ク保護ノ義ナリト解釈スル人ノ中ニモ、保護ヲ以テ全然治療ト同一義ナリト看做スモノト、又治療ヲ以テ保護ノ一部ナリト解スルモノトアルモノヽ如シ。而シテ該法ノ実地ノ運用ニ当ル行政官・警察官等ハ監置ヲ以テ監禁ト解スルモノ多キニ居ルガ如シ。
 吾人ヨリシテ之ヲ見レバ、精神病者ノ処置ニツキテハ、病者ノ監督・取締モ須要ナレドモ、ソレト同時ニ其治療及ビ看護モ亦甚須要ナリトス。精神病者ハ其行為ニ社会ノ安寧。秩序ヲ紊スモノアルヲ以テ、仮令ヒ病者ノ意志ニ反ストモ、之ヲ一定ノ制限ヲ付シタル場所ニ収容シテ、其自由ヲ束縛シテ可ナリ、然レドモ精神病者ガ健康者ニアラズシテ疾病者ナルハ勿論ニシテ、其反社会的行為ハ一ニ其病ノ徴候ナレバ、其病ガ之ヲ行ハシムルモノト云フベシ。故ニ之ヲ監置スルニ際シテハ其疾病ニ治療ヲ加ヘテ、其個人ノ不幸ヲ救助スルト同時ニ、之ニヨリテ、公安ノ維持ヲ謀ルベキハ当然ナリ。之ヲ現代科学ノ立場ヨリ言ヘバ、仮令ヒ監護法ノ法文中ニ治療ニ関スル規定ナシトスルモ、之ガ実際ノ運用ニ当リテハヨク精神病ノ本体ヲ顧ミ、病者ノ監督・取締ト治療・看護トヲ共ニ完クシ、斉ク成スノ道ヲ講ゼザルベカラズ。
 精神病者ノ看護・治療ニ対シテハ病院生活ニ優ルモノナク、病者ヲ病院ニ収容シ之ニ治療ヲ加フルコトノ必要ナル所以ニ就テハ、更ニ第七章ニ於テ之ヲ論ズベシ。然ルニ現行ノ監護法ニヨリテ精神病者ヲ入院セシメントスルニハ仮令ヒ専門医ノ認メテ毫モ監置スル必要ナシトスル病者ヲモ必ズ先ズ当局ノ許可ヲ経テ之ヲ監置セザルベカラズ。是レ明カニ現代的精神病処置ニ違背スルモノト云ハザルベカラズ。精神病ナルモノハ一様一種ニアラズ、種類ニモ、病勢ニモ、其症状ニモ、種々様々ノモノアリ、其中ニハ病症ニヨリ、ソノ徴候ニヨリテ、監置ハ却ツテ其治癒ノ妨害トナルモノアリ。然レドモ之ハ入院・治療ノ必須ナルコトハ監置セザルベカラザル病人ト全ク同一ナルモノアリ。現時監護法ノ欠点(特ニ警視庁令第四十一号ノ規定ノ如キ、然シ是レ或ハ警視庁当局者等ノ見解ニ誤謬アルニモヨラン)ハ此ノ如キ病者ニ対スル病院ノ設立ヲ許サヾルニアリ。何トナレバ当局者ハ唯惟リ精神病院トシテ監置的病院ノミヲ認メテ、前記ノ如キ病者ハ之ガ治療ヲ受クルニ適当ノ場所(病院)ヲ欠キ、又治療ヲ受ケテ全癒スルコトヲ遅延シ、又治療ヲ受ケテ全癒スルノ機会ヲ失ヒ了ラントス。此ノ如キハ当局者ノ誤解モアラン、監護法ノ不備モ亦職トシテ此誤謬ヲナサシムルナリ。
 之ヲ要スルニ現行ノ精神病者監護法ハ一ニ稀有ナル不法監禁ヲ取締ランコトヲノミ眼中ニ置キテ、精神病者ノ待遇保護ヲ衛生上又ハ社会上ノ二方面ヨリ観察シテ之ヲ完整スルコトヲ顧ミザリシガ故ニ。従来猥ニ精神病者ヲ制縛・監禁セシガ如キ悪弊ヲ取締リ得タルコトハ多少ハ之アリシナラン。而モ之ガ為ニ病者保護ノ主眼タル治療ノ利得ヲ阻礙スルコト多大ナリシナリ。之ヲ一面ヨリ言ヘバ、明カニ其処置ハ此法ノ命令ニヨル医療ノ権利ヲ侵犯スルモノト云フベシ。
 精神病者ニ対スル我邦ノ法律ニ不備アルハ、惟リ監護法ノミニ止マラズ、我刑法ニハ精神病者ノ犯罪行為ヲ以テ心神喪失者ノ行為トナシ、之ヲ罰セザル規定ナルモ、此ノ如クニシテ免訴トナリシ犯罪的精神病者ニツイテハ、其後ノ処置ニ関シ法律上ニモ何等ノ規定ナク、行政上ニ於テモ何等ノ処置ヲ講ゼザルハ奇怪ニ堪ヘザルコトナリ。
 吾人ハ我邦ノ精神病者ニ対スル法律ガ社会ノ進歩ニ伴レテ改正セラレ、或ハ新ニ立案セラレンコトヲ希望シテ已マザルナリ。






   第七章 意 見

 以上絮説セシ所ニヨリ吾人ハ我邦ニ於ケル私宅監置ノ現状ハ頗ル惨澹タルモノニシテ行政庁ノ監督ニモ行キ届カザル所アルヲ知レリ。吾人ハ茲ニ重子テ言フ。斯ノ監置室ハ速ニ之ヲ廃止スベシト。漸ノ如キ収容室ノ存在ヲ見ルハ正ニ博愛ノ道ニ戻ルモノニシテ又実ニ国家ノ詬辱ナリ。又一面吾人ハ民間療方ニモ何等見ルベキモノナク、且ツ時トシテ危険ヲ伴フ措置アルヲ知リ、共他猶ホ精神病者運搬方ニ甚醜態ヲ呈スルモノアルヲ見タリ。是レ亦公共ノ力ヲ効シテ宜シク遷善・改良スベキモノタリ。
 斯ノ如ク種々遺憾ニ堪ヘザルコトノ存スルニツイテハ其根柢一二ニシテ止マラザルベシ。精神病者監護法ノ不備ノ之ニ与カリテ有力ナル原因タルニ関シテハ曩ニ之ヲ述ベタリ。然レドモ其最大原因タルハ正ニ病者ヲ収容スベキ施設ノ欠ケタルコト是ナリ。冐頭緒論ニ於テ既ニ挙示セシガ如ク、方今我邦ニ於テハ官公立精神病院ノ施設殆ンド全ク之ヲ闕キ、之ガ代補タルベキ私立精神病院ノ収容力モ亦甚貧弱ニシテ、全国凡ソ十四五万ノ精神病者中、約十三四万五千人ノ同胞ハ実ニ聖代医学ノ恩沢ニ潤ハズ、国家及ビ社会ハ之ヲ放棄シテ弊履ノ如ク毫モ之ヲ顧ミズト謂フベシ。今此状況ヲ以テ之ヲ欧米文明国ノ精神病者ニ対スル国家・公共ノ制度・施設ノ整頓・完備セルニ比スレバ、実ニ霄壤月鼈ノ県隔相異ト云ハザルベカラズ。我邦十何万ノ精神病者ハ実ニ此病ヲ受ケタルノ不幸ノ外ニ、此邦ニ生レタルノ不幸ヲ重ヌルモノト云フベシ。精神病者ノ救済・保護ハ実ニ人道問題ニシテ、我邦日下ノ急務ト謂ハザルベカラズ。
 抑々精神病ハ之ヲ良性ノ疾病ト称スルコト能ハズト雖ドモ、亦決シテ、世間ノ多クガ誤解スル如ク其予後ノ不良ナルモノニアラズ。之ヲ恰好ノ時機ニ処シ之ニ適当ノ医療ヲ加フレバ少ナカラズ治癒スベキノ疾病ナリ。独逸国否世界精神病学ノ泰斗タルクレペリン氏 Kraepelin ハ精神病者ノ全治率ヲ称シテ三〇・〇・乃至四〇・〇「プロセント」ナリト云ヘルガ、独逸ニ於ケル治癒率ノ大ナル精神病院ニテハ其率ハ大抵二〇・〇乃至六〇・〇「プロセント」ナリト云フ。之ヲ吾人ノ東京府巣鴨病院統計ニ徴スルモ全治一二・〇「プロセント」、軽快二二・三「プロセント」不治三七・五「プロセント」死亡二八・二「プロセント」(明治三十八年―大正四年十一個年平均数)ヲ証スルモノトス。然カモ此ノ病タル一朝治療ニ時機ヲ失シ或ハ不適当ナル処置ヲ施サンカ、其予後不良トナリ、治スベキモノモ直ニ癒エズ、病症経久性トナルモノ亦尠シトセズ。故ニ之ガ治療ノ道ハ一アリテ他ナシ。曰ク、早期ニモセヨ晩期ニモセヨ之ヲ病院ニ収容シテ十分ノ治療ヲ加フルコト是ナリ。凡ソ疾病ハ之ガ治療ニ方リテハ、病院ニ於ケル治療ノ自宅ノ療養ニ優ルモノアルハ智者ヲ俟タズシテ自ラ明カナリト雖ドモ、吾人ハ私宅監置ノ弊ヲ見テ益々其最適切ナルヲ覚ユルナリ。吾人ハ茲ニ現行制度ニ代フルニ精神病院法ヲ実施スルニヨリテ、病者並ニ国家・社会ガ受クベキ幸福・利益ニ関シ、其大要ヲ左ニ臚列セント欲ス。
(一) 病院ハ私宅監置室ニ比シ、其構造及ビ設備ノ整頓スルコトニ於テ遙ニ之ヲ凌駕ス。
 現今ノ私宅監置室ハソノ行動甚不完全ニシテ其設備ニ於テ殆ド全ク具ハレルモノナク、概子室ヲ不健康ナル場所ニ設ケ、採光・換気不良ニシテ、病室ト便所トハ別処ニ置カレズ、殆ンド凡テノ例ニ於テ狹隘ナル室内ニ排便口ヲ備ヘラレタリ。又防寒・防暑ニ対スル装置、洗面所ノ設置アルモノ殆ンドナク、食物ヲ給与スルニハ食物插入口ヨリ腕等ヲ以テスルニ過ギズシテ、ソノ最大多数ハ到底之ヲ病室ト称スルコトヲ得ザルモノナリ。是等ノ欠点ハ衛生上ノ注意ヲ根本的要素トシテ建造セル病院ノ病室ニヨリテ十分ニコレヲ除キ得ベク、敢テ之ニ説明ヲ加ヘズシテ明ラカナリ。
(二) 病院ニ於ケル治療・看護ハ私宅ニ於ケル看護・待遇ノ尽サヾルモノアルト比較スベクモアラズ。
 監禁アリテ治療ナキノ今日ノ私宅監置ノ弊害ハ病者ノ病院収容ニヨリテ始メテヨク之ヲ芟除シ得ベシ。被監置者ニ認ムル如キ興奮・不潔症・拒絶症・合併症等ノ処置ハ病院ニ於ケル医薬・治療ヲ誇リ俟チテヨク之ヲ達シ得ベク、又著衣・寢具・沐浴・理髮・大小便ノ処置・室内ノ清潔方等ハ病院ノ周到ナル看護ニヨリテヨク之ヲ望ミ得ベシ。食事・戸外運動・遺散・娯楽・作業療法等病者ノ栄養ヲ良好ニシ、治癒ヲ早カラシムル如キ処置ハ病院生活ニヨリテヨク其完キヲ得ベシ。是等幾多病院ノ長所ハ決シテ私宅監置ニ於テ遂グルコト能ハズ。自宅ニ於ケル療養ハ仮令ヒ患家ガ富裕ニシテ家人能ク力ヲ看護ニ効スト雖ドモ。到底病院ノ治療・看護ニ最善ノ方法ヲ尽スニ若カズ、却ツテ多クハ病勢ニ害アリテ治癒ヲ妨グルモノナリ。
(三) 患家ハ患者ヲ入院セシムルコトニヨリテ物質的並ニ精神的ニ大ナル利益ヲ得ベシ。
 今日ノ監置室ハ其構造甚疎造ナルモノナレドモ、新ニ之ヲ設クルニ際シテハ相当ノ費用ヲ要スルハ勿論ナリ。貧困ナルモノニ対シテハ決シテ軽キ負担トセズ。患家ノ負担ハ啻ニ之ヲ以テ終ヘタルニアラズ。患家ハ又看護法ノ定ムル所ニ従ヒ、病者ノ扶養ニ任ゼザルベカラズ。更ニ又看護ニ費ス労力ト時間トニヨリテ家計ノ資ヲ減ゼザルベカラズ。然ルニ猶ホ患家ニ望ムニ室ノ改良ヲ目的トシテ更ニ便所ヲ増設シ、洗面所ヲ設クルガ如キ設備ノ整頓ヲ以テセンカ、蓋シ難キヲ人ニ求ムルノ類ナリト謂ハザルベカラズ。患家ノ損害ハ啻ニ此物質的ノ方面ニ止マラズ、以テ精神病者ヲ家族内ニ擁スルノ故ヲ以テ、世俗ノ風習其他幾多ノ事情ニヨリ、精神上ニモ一大打撃ヲ受ケ、一家ノ活動力ノ減弱ヲ来タスコトハ、決シテ他ノ疾病ニ於ケルノ比ニアラザルナリ。然ルニ今公立精神病院ニシテ世ニ普ク、病者ノ収容ニシテ容易ナラバ、患家ハ之ニヨリテ活動力ノ消耗ヲ免カレ、意ヲ安ンジテ家業ニ励ミ、其家計ヲシテ向上セシメ得ベキナリ。吾人ノ知レル幾多ノ貧窶ナル患家ハ之ニヨリテ初メテ其家ヲ斉フベキナリ。此ノ如クニシテ一国ノ生産力ハ必ズヤ増進スベキナリ。
(四) 国家及ビ社会ハ精神病者ヲ病院ニ収容スルコトニヨリテ、社会ノ安寧・秩序ヲ維持シ、病者ノ危険・犯罪行為ヲ防遏シ得ル利益アリ。
 実際ノ現状ニ照スニ、今日ノ監置ハ精神病者ニ社会的危険行為ノ発現アリタル後ニ初メテ之ヲ行フノ有様ニシテ、精神病者収容方トシテハ理想的ノモノナラズ。時機ニ於テ既ニ遅レタルモノト称スベシ。宜ク危険又ハ犯罪行為ノ発現セザルニ先チ、之ヲ未然ニ防御セザルベカラズ。精神病院ノ普及ハ此点ニ関シテモ亦社会ニ利益ヲ与フルコト多大ナリ。凡ソ精神病者ハ其病証トシテ之ニ十分ノ看護及ビ守視ヲ加ヘザルニ於テハ、何時突発的ニ危険行為ニ及ブベキカハ予想シ難キモノナルガ故ニ、国家ハ病院ノ施設ヲ普及ストル共ニ看護法ヲ改正シテ、未ダ危険行為ノ発呈ナキ病者ニテモ、早期ニ且ツ容易ニ入院シ得ルコトヲ講ジ、又一面ニハ一般世人ニ早期入院ノ甚有効ナルコトヲ知ラシメザルベカラズ。病院ニ於ケル適当ナル処置ハ病者ノ危険行為ヲ未然ニ防ギテ同胞ヲ蠹毒スルコトナカラシムルモノナリ。
 以上大畧説述シタル所ニヨリテモ、病院ノ施設ノ普及ハ病者自カラノ幸福ヲ増進シ、又社会ノ福祉ヲ促進スルコトノ一斑ヲ説明シ得タリト信ズ。吾人ハ反復シテ云フ、官公立精神病院ハ速ニ設立セラレザルベカラズト。
 夫レ精神病ノ証候タル独リ病者自身ノ権利・義務・名譽・財産ヲ損害スルノミナラズ、又一面、他人ノ生命・財産ヲモ危殆ニシ、社会的危険性ヲ伴フモノアリテ、犯罪ト直接重大ナル関係ヲ有スル点ニ関シテハ、等シク所謂国民病トシテ枚挙セラルル結核・癩卜同日ノ論ニアラザルナリ。故ニ精神病者ノ処置ハ之ヲ人道上、博愛慈善ノ旨ヨリ観ルモ、将又之ヲ司法行政上、公安ノ維持・社会ノ安寧ノ点ヨリ論ズルモ、国家ガ率先シテ制度・施設ヲ整ヘ、保護・救済ノ方策ヲ講ズベキ性質ノモノナリトス。況ヤ我邦ノ現状ニアリテハ「無辜ノ窮民ニシテ医薬ノ給セラレザル」精神病者ノ甚多キニ於テヲヤ。又況ヤ精神病者ノ数ハ年ヲ逐フテ常ニ増加スル事実アルニ於テヲヤ。翻ツテ結核・癩ニ対スル国家ノ措置ヲ観ルニ、国家ハ夙ニ数次法令ヲ発布シテ施設ヲ備ヘ其予防・撲滅ニ努メ、特ニ結核ニ関シテハ最力ヲ用フル所アリ、之ニ対シ又一面ニ於テハ公共団体モ政府ノ事業ヲ助ケテ民間ニ設備ヲ施スモノ尠カラズ。然ルニ精神病ニ関シテハ曩ニ明治四十四年第二十七回帝国議会ニ於テ可決セラレタル官公立精神病院設立ニ関スル決議案ノ其後其儘ニ葬ラレタルガ如クニシテ其制度・施設ノ発達頗ル遅々タルハ何ガ故ゾ。吾人精神科医ハ自ラ省ミテ、吾人ノ熱心・努力ノ末ダ足ラザルモノアルニ忸怩タラズソバアルベカラズ。
 幸イニシテ最近ノ国情ハ精神病ニ関スル制度・施設ノ改善・向上ニ向ツテ、一道ノ光明ヲ投ジ来レルガ如ク、政府当局者モ既ニ之ガ調査・研究ノ歩ヲ進メツヽアリト聞ク。是レ吾人ノ甚欣喜スル所ノモノニシテ、吾人ハ政府ガ進ンデ是ヲ実施センコトヲ希望シテ已マザルモノナリ。
 思フニ精神病者ノ救済・保護ニ関シテハ種々ノ方策ヲ要スルコトナレドモ、之ヲ要スルニ次ノ四者ヲ是緊要ナル事項トナス。而シテ茲ニ称スル精神病トハ広義ニ於ケル精神病ヲ意味スルモノナリ。
(一) 精神病ニ関スルモ諸種ノ施設ヲ整フルコト。
(二) 精神病ニ関スル法律ヲ完全ニスルコト。
(三) 一般世人ニ精神病ニ関スル智識ノ普及ヲ謀ルコト。
(四) 精神病者ノ治療又ハ監督ニ当ルモノニ精神病学的智識ノ普及ヲ謀ルコト。
 之ガ実行方法ニ関スル具体的意見ハ爰ニ之ヲ詳述スルノ煩ヲ避ケ、唯、其大綱ヲ述ブレバ、官公私立精神病院ノ設立・精神病者監護法ノ改正・精神病学講習ニ関スル機関ノ設置・精神病者ノ救助ニ関スル慈善会ノ設立等ヲ主要ナルモノトシ、就中、全国ニ亙ツテ公私立精神病院ノ設立ヲ普及シ、精神病者監護法ノ改正ヲ謀ルハ焦眉ノ急務ナリトナス。然レドモ是レ一朝一夕ニシテ之ヲ完クスベキニアラザレバ、其実施完成ヲ見ル迄ハ、宜シク私宅監置ノ監督方法及ビ神社仏閣ニ於ケル処置等ヲ改善・誘導スルハ又目下須要ノコトナリト信ズ。以上ノ計画ハヨリ国家ノ力ニ倚ルノミナラズ、地方自治団体・民間公共団体・精神病学専門家等モ之ニ与リ、政府ト協心・戮力シテ事業ノ大成ヲ期スベキモノナリ。此ノ如クニシテ初メテ精神病者ニ関スル救済ハ其道ヲ得ルニ至ルコト吾人信ジテ疑ハザル所ナリ。




二〇〇六・一一・三〇 登載
「精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察」(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/985160/1

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