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我が家の戦争犠牲者研究 第二次世界大戦等の戦争犠牲者数
先の大戦で犠牲になった人は、正確にはどれほどおられたのだろうか。その人たちは、なぜ、どのようにして命を落とされたのだろうか。この犠牲者等に、国等はどのような対処をしてきたのか、またしているのか。これらの疑問を出発点にして、情報を集めることにしました。社会科の教科書をはじめ、図書館にある本、インターネットのネットサーフィン等を通して、参考になりそうな資料を探しました。素人の作業ですが、それらを整理してひとつの作品にしました。けっこう利用価値のある資料になりましたので、ホームページ用のファイルに仕立てました。ここに載せたものは、公刊された資料からの引用の寄せ集めですが、自分なりに新しい発見がいくつもあり、とてもよい勉強になりました。
この作品をホームページに載せることについて、著作権のことが気に掛かります。基本的には、著作権法第32条第2項に規定される公的機関が公表したものの引用、第51条から第53条等の規定により著作権が消滅したと判断されるもの、そして第32条第1項に規定された引用として、出版物やウェブに掲載されたもの等から引用し、紹介させていただいたものです。それぞれその出典を明記し、迷うものについてはその出版社などに問い合わせをし了承を得た上、掲載しております。それでも法解釈の間違いや配意不足があるかもしれません。そのようなものが感じられたら教えていただけると嬉しいです。
当初載せていた新聞記事からの引用部分については削除しました※。 |
このファイルは、Windows XP のもとで、<PRE>タグの機能を活用して作成したものです。そのため、スマホで閲覧すると、当方の意図と異なった表示になってしまうことがあるようです。忠実な等幅文字が表示できない環境ですと、文字配列がゆがんでしまいます。例えば iPad や iPhone 等に登載の Safari 等のブラウザでは、数字の表の揃いが崩れてしまいます。また、Mozilla Firefox のように、縦書き表示ができないものですと、その部分が重複した横書き表示になってしまいます。 |
【中学校社会科教科書に記されている第二次世界大戦等の戦争犠牲者数】
第二次世界大戦での主な国の犠牲者数
国 名 兵 員 の 一般市民の
死 亡 行方不明 死 亡
ア メ リ カ 407,828 ― ―
イ ギ リ ス 353,652 90,844 60,595
フ ラ ン ス 166,195 ― 174,620
ポーランド (6,000,000)
ソ 連 (20,000,000)
中 国 (10,000,000)
ド イ ツ 2,100,000 2,900,000 500,000
イ タ リ ア 389,000 214,647 179,803
日 本 約2,300,000 約800,000 (単位 人)
日本の兵員のうち、朝鮮・台湾の兵員犠牲者、約5万人を含む。
(ワールドアルマナック等)
*引用資料から、戦争犠牲者数についての記述、及びそれに関連した記述のいくつかを掲げました。
日本軍は、首都の南京占領にあたっては、婦女子を含む多数の中国人を殺害し、諸外国に報じられて非難されました(南京事件)。
ドイツは、…ユダヤ民族の絶滅をめざして強制収容所に連行し、…600万人といわれるユダヤ人を殺害しました。
朝鮮から約70万人、中国から約4万人を強制的に日本へ連行して鉱山や工場などで働かせました。
1945年3月、東京は焼夷弾による無差別爆撃を受け、…一夜で約10万人が犠牲になりました。
連合軍は、1945年3月に沖縄に上陸…。本土防衛のためとして、沖縄では中学生から女学生までを兵士や従軍看護婦に動員して…にげまどう住民をまきこんで…スパイの疑いで日本軍に殺されたり、集団自決をせまられた人々もいました。犠牲者数は、…軍人・軍属(ひめゆり部隊や健児隊に動員された中学生・女学生も含む)に住民を合わせて、当時の県の人口約42万人のうち12万人以上と推定されています。
原子爆弾…多数の一般市民が犠牲になりました。その人数は数週間のうちに広島で14万人、長崎で7万人にのぼりました。
約60万人の日本兵が捕虜としてシベリアに長期間抑留され、強制労働によって多くの犠牲者が出ました。
当時、海外に配置された日本軍は約355万人で、主要な戦場であった満州には約67万人が、中国本土には112万人がいました。
この大戦は全世界で約6000万人、アジアで約2000万人にのぼる犠牲者を出し、特に一般市民の犠牲が多数…。
第一次世界大戦での主な国の犠牲者数
国 名 兵 員 (単位 人)
死 亡 負 傷
アメリカ 126,000 234,000
イギリス 908,000 2,090,000
フランス 1,363,000 4,266,000
ロ シ ア 1,700,000 4,950,000
イタリア 650,000 947,000
ド イ ツ 1,774,000 4,216,000
オーストリア 1,200,000 3,620,000
日 本 300 907
(アメリカ陸軍省調べなど)
≪「中学社会<歴史的分野>」
(大阪書籍編集部 大阪書籍 中学校社会科用 平成13.3.30検定済)から≫
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中学校社会科歴史教科書 出版社別 第二次世界大戦の戦争犠牲者数関連の記述 「教科書センター用見本」(平成27年度使用)から
東京書籍「新しい社会 歴史」 平成23年3月30日検定済 2|東書|歴史721
…日本軍は、同年(1937年)末に首都の南京を占領しました。その過程で、女性や子どもなど一般の人々や捕虜をふくむ多数の中国人を殺害しました(南京事件*)。 →* …被害者の数については、さまざまな調査や研究が行われていますが、いまだ確定していません。(P204)
…ドイツはユダヤ人を徹底的に差別し、アウシュビッツなど、各地の強制収容所に送り、労働を行わせ、殺害しました。(P207)
…日本は、植民地や占領地でも、厳しい動員を行いました。多数の朝鮮人や中国人が、意思に反して日本に連れてこられ、鉱山や工場などで劣悪な条件のもと過酷な労働をしいられました。こうした動員は女性にもおよび、戦地で働かされた人もいました。…各地で抵抗運動が発生しました。日本軍は抗日的と見なした人々を厳しく弾圧し、多くの犠牲者がでました。(P211)
…この戦争の死者は、全世界で5000万人をこえると推計され、軍人よりも民間人のほうが多かったといわれます。行方不明者も多数にのぼり、物的な被害も多大なものがありました。(P211)
第二次世界大戦でのおもな国の死者数
国 名 軍人(人) 民間人(人) 国 名 軍人(人) 民間人(人)
連合国側 アメリカ 292131 6000 イギリス 264443 92673
フランス 213324 350000 ソ 連 11000000 7000000
中華民国 1310224 不明 ポーランド 123178 5675000
枢軸国側 ド イ ツ 3500000 780000 イタリア 242232 152941
日 本 2300000 800000
日本の死者数には朝鮮や台湾の人々も含まれています。
(The New Encyclopædia Britannica, 15th ed., 1994, 日本は厚生労働省資料)(P211)
…民間人を巻きこむ激しい戦闘によって、沖縄県民の犠牲者は当時の沖縄県の人口のおよそ4分の1に当たる12万人以上になりました。その中には、日本軍によって集団自決に追いこまれた住民もいました。(P213)
…原爆の投下から5年以内に、広島で約20万人以上、長崎では14万人以上の生命がうばわれ、現在も多くの人々が放射線による後遺症で苦しんでいます。(P213)
…満州でソ連軍にとらえられた約60万人の人々が、数年間シベリアで強制労働をさせられ、その1割余りが死亡したといわれています。(P226)
帝国書院「社会科 中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き」 平成23年3月30日検定済 46 帝国 歴史-724
…日本軍は…上海や当時首都であった南京を占領しました。南京では、兵士だけでなく、女性や子どもをふくむ多くの中国人を殺害し、諸外国から「日本軍の蛮行」と非難されました(南京虐殺事件)。(P208)
…ドイツは…ヨーロッパ各地でユダヤ人をとらえて強制収容所へ送り、数百万人のユダヤ人の命をうばいました。(P210)
…日本国内で労働力が不足すると、企業などで半ば強引に割りあてを決めて朝鮮人や中国人を集め、日本各地の炭鉱・鉱山などに連れて行き、低い賃金できびしい労働をおしつけました。(P213)
(P216に、日本全国の空襲による県別、都市別死者数の図あり)
…沖縄では空襲のほかに、船から陸上を攻撃する艦砲射撃や、アメリカ軍の上陸による攻撃が行われ、軍人だけでなく、多くの住民が犠牲になりました。(コラムにいくつかの事象を紹介)(P217)
…1945年3月には東京も空襲を受け、約10万人が犠牲になりました(東京大空襲)。(P218)
…原子爆弾…広島では約14万人もの人が犠牲になり、長崎でも1945年末までに7万人を数える人が犠牲になりました。…広島では…1950年までに20万人以上が亡くなったといわれています。(P218)
…第二次世界大戦での日本軍の死者は130万人以上、民間人の死者も60万人以上といわれています。(P220)
…世界中での死者は、3000万人をこえたといわれています。(P220)
…ソ連が参戦後に占領した地域にいた日本の軍人や移民団の男性など約60万人は捕虜となり、シベリアに抑留されました(シベリア抑留)。きびしい寒さのなかで労働をしいられ、多くの犠牲者がでました。…1956年までに約47万人が帰国しました。…6万人以上がシベリアで亡くなったといわれています。(P220)
第二次世界大戦の犠牲者(P220)
連合国 ソ 連 1800万 中 国(1000万人以上と推定される) ポーランド 580万
フランス 56万 イギリス 36万 アメリカ 30万
枢軸国 ド イ ツ 430万 日 本 197万 ルーマニア 50万 ハンガリー 49万
イタリア 40万
育鵬社「中学社会 新しい日本の歴史」 平成23年3月30日検定済 227 育鵬社 歴史728
…日本と中国は全面戦争に突入していきました(日中戦争)。日本軍は12月に首都・南京を占領しました* が、蒋介石は奥地の重慶に首都を移し、徹底抗戦を続けたため、長期戦に突入しました。→* このとき、日本軍によって、中国の軍民に多数の死傷者が出た(南京事件)。この事件の犠牲者数などの実態については、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。(P209)
…ドイツはユダヤ人に対し徹底した迫害を加え、収容所に送られて殺害されたユダヤ人は数百万人にのぼるといわれます。(P212)
…中国や東南アジアなど日本軍が侵攻した地域では、兵士や民衆に多くの犠牲者が出ました。…連合国軍の反攻が激しくなると、物資や労働力の確保を優先する日本軍によって、現地の人々が過酷な労働に従事させられることもしばしばありました。欄外→泰緬鉄道建設の写真→…日本軍や東南アジア各国からの労働者、イギリス軍捕虜を大量に動員して建設したが、多くの犠牲者が出た。(P217)
…(米軍の)爆撃は…無差別に行われるようになり…非戦闘員にもおびただしい被害をもたらしました。…東京大空襲は、一夜にして死者約10万人、焼失家屋約27万戸という大きな被害をもたらしました。
…4月になると米軍は沖縄本島に上陸し、激しい地上戦がくり広げられました。日本軍は沖縄県民とともに必死の防戦を展開し、米軍に大きな損害をあたえました。また、若い兵士たちの航空機による体当たり攻撃(特攻)や、戦艦大和による水上特攻も行われ、数多くの命が失われました。そうしたなかで、沖縄の中学生や女学生の中には、この戦いに従事して、命を落とす人も少なくありませんでした。米軍の猛攻で逃げる場を失い、集団自決する人もいました。 欄外→沖縄戦の写真→ 日本側は東京大空襲を上回る18万〜19万人の死者を出し、その半数以上は一般市民だった。(P219)
…アメリカは…原子爆弾(原爆)を広島に投下しました。…想像を絶する高熱と爆風、そして放射線が約14万〜15万人の一般市民の命をうばいました。…ふたたび長崎に投下され、約7万〜8万人が犠牲となりました。(P220)
…満州・北朝鮮にいた約200万人の人々は、ソ連軍の攻撃や略奪にあい、多くの犠牲者を生みました。 また、ソ連は…武装解除した軍人など約57万〜70万人をシベリアなどに連行し、長期間過酷な労働に従事させたため約6万人が死亡しました。(P221)
…第二次世界大戦全体の世界中の戦死者は2200万人、負傷者は3400万人とも推定されています。(P221)
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【日本人戦没者数】
戦 没 者 の 数
先の大戦は 西太平洋の島々を含むアジア全域に及ぶ広大な戦域において長年にわたって続けられた苛烈な戦争であった。この戦いにおける国内外の戦没者は軍人軍属、一般邦人合わせて約310万人といわれている。
これらの戦没者のうち 日本本土以外の海外各戦域(硫黄島、沖縄を含む)における戦没者は約240万人(軍人軍属約210万人、一般邦人約30万人)と公表されている。
主要地域別戦没者数一覧
A 陸海軍人軍属戦没者数一覧 B 軍人・軍属・一般邦人を含む一覧
日 本 本 土 103,900 日 本 本 土 700,000
小 笠 原 15,200
沖 縄 89,400 沖 縄 186,500
朝 鮮 26,500 朝 鮮 53,500
台 湾 39,100 台 湾 41,900
満 州 46,700 満 州 245,400
中 国 本 土 455,700 中 国 本 土 465,700
樺 太 8,800 樺太・千島・アリューシャン 24,400
ア ッ ツ 島 2,600
ソ 連 邦 55,000 ソ 連 邦 54,400
硫 黄 島 20,000 硫 黄 島 21,900
南 鳥 島 857
中部太平洋諸島 197,600 中部太平洋諸島 247,000
マーシャル諸島 7,790
ギルバート諸島 5,214
フ ィ リ ピ ン 498,600 フ ィ リ ピ ン 518,000
仏 印 12,400 仏 印 12,400
マライ ・ シンガポール 11,400 タイ、マレー、シンガポール 21,000
タ イ 7,000
ビ ル マ 164,500 ビ ル マ 137,000
イ ン ド 30,000
アンダマン ・ ニコバル 2,400
ジ ャ ワ 6,500 蘭印(インドネシア) 31,400
ス マ ト ラ 3,200
セ レ ベ ス 5,500
ボ ル ネ オ 18,000 北 ボ ル ネ オ 12,000
モ ル ツ カ 4,400
小スンダ・西部ニューギニア 82,600 西部ニューギニア(西イリアン) 53,000
東部ニューギニア 127,600 東部ニューギニア 127,600
ビスマルク諸島 30,500 ビスマーク・ソロモン諸島 118,700
ソロモン 諸 島 88,200
総 数 2,123,300(概数) 総 数 3,100,000(概数)
(うち海外 2,400,000)
備考 1. 本図は、もとの陸海軍人軍属を対象としている。
2. 本図は支那事変関係戦没者188,000人を含む。
3. 国名、地名は、大戦当時のものである。
《Aは、財団法人千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会リーフレットに記載の図中の数値を引用しました。
上の文及びBは、「千鳥ヶ淵戦没者墓苑創建50年史」((財)千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会編
H21.3.28発行)12頁に記載の文及び図中の数値を引用しました。》
関連:<http://boen.or.jp/boen01.htm>
<http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/asia-pacific%20war.html>
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地域別 戦没者概数・遺骨送還概数・残存遺骨概数
(平成23年8月12日現在)
戦没者概数 遺骨送還概数 残存遺骨概数
沖 縄 186,500 186,520 −
中 国 本 土 465,700 438,470 27,230
中 国 東 北 部 245,400 39,180 206,220 (ノモンハンを含む)
樺 太、千 島 等 24,400 1,720 22,680
ロシア(旧ソ連) 54,400 20,660 33,740 (モンゴル含む)
硫 黄 島 21,900 9,540 12,360
中 部 太 平 洋 247,000 72,670 174,330
フ ィ リ ピ ン 518,000 148,520 369,480
タ イ、 マレーシア等 21,000 20,200 800
ミ ャ ン マ ー 137,000 91,390 45,610
イ ン ド 30,000 19,940 10,060
北 ボ ル ネ オ 12,000 6,910 5,090
インドネシア 31,400 11,030 20,370
西 イ リ ア ン 53,000 32,950 20,050
東部ニューギニア 127,600 50,310 77,290
ビスマーク・ソロモン諸島 118,700 56,470 62,230
その他の地域* 107,800 58,800 49,000
(*=韓国、 北朝鮮、 台湾、 ベトナム、
カンボジア、 ラオス他)
2,400,000 1,265,000 1,135,000
※沖縄戦没者概数については、沖縄県資料によると188,100となっており、
遺骨送還概数には沖縄県民による収骨数が含まれる。
戦没者の遺骨帰還について
先の大戦における戦没者数は310万人であり、このうち海外における戦没者は約240万人であり、これらの海外戦没者の遺骨は、軍人等が持ち帰ったもの以外は、海外の戦域に残されたままとなっていた。
サンフランシスコ平和条約の発効した昭和27年以来、国は、海外の戦没者の遺骨帰還を実施している。
海外の戦没者の遺骨帰還の現状については以下のとおり。(平成23年8月12日現在)
海外戦没者概数 約240万人
遺骨帰還概数 約127万柱
未帰還遺骨概数 約113万柱
うち 海没遺骨 約30万柱
相手国の事情(注)により御帰還が困難な遺骨 約23万柱
御帰還が可能な遺骨(推計) 約61万柱
(注)国交がない(北朝鮮)、対日感情に配慮する必要がある(中国)など
(参考)国の遺骨帰還事業による御帰還遺骨数 約33万柱
《厚生労働省ホームページ 報道発表資料 2011年8月 戦没者慰霊事業のお知らせ から》
関連:http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000132980.html
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大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数
(厚生省援護局 昭和39.3.1作成)
陸 軍 海 軍 計
昭20.8.15 昭12.7.7〜 昭20.8.15 昭12.7.7〜 昭20.8.15 昭12.7.7〜
現存兵員数 死没者計 現存兵員数 死没者計 現存兵員数 死没者計
日本本土(含周辺) 2,372,700 58,100 1,962,800 45,800 4,335,500 103,900
小 笠 原 諸 島 15,000 2,700 8,600 12,500 23,600 15,200
沖 繩 諸 島 40,900 67,900 11,200 21,500 52,100 89,400
台 湾 128,100 28,500 62,400 10,600 190,500 39,100
朝 鮮 294,200 19,600 41,700 6,900 335,900 26,500
樺太・千島(含アリューシャン) 88,000 8,200 3,000 3,200 91,000 11,400
満 洲 664,000 45,900 1,500 800 665,500 46,700
中国本土(含香港) 1,055,700 435,600 69,200 20,100 1,124,900 455,700
シ ベ リ ヤ 0 52,300 0 400 0 52,700
中部太平洋諸島 48,600 95,800 58,300 151,400 106,900 247,200
フ ィ リ ピ ン 97,300 377,500 29,900 121,100 127,200 498,600
仏 領 印度支那 90,400 7,900 7,800 4,500 98,200 12,400
タ イ 106,000 6,900 1,500 100 107,500 7,000
ビルマ(含印度) 70,400 163,000 1,100 1,500 71,500 164,500
マライ・シンガポール 84,800 8,500 49,900 2,900 134,700 11,400
アンダマン・ニコバル 10,700 900 600 1,500 11,300 2,400
ス マ ト ラ 59,500 2,700 100 500 59,600 3,200
ジ ャ ワ 40,400 2,700 9,700 3,800 50,100 6,500
小 ス ン ダ 17,500 51,800 3,000 1,200 20,500 53,000
ボ ル ネ オ 18,600 11,300 10,900 6,700 29,500 18,000
セ レ ベ ス 17,700 1,500 8,800 4,000 26,500 5,500
モ ル ツ カ 51,900 2,600 19,400 1,800 71,300 4,400
ニューギニヤ 30,200 112,400 3,600 15,200 33,800 127,600
ビスマルク諸島 57,500 19,700 38,900 10,800 96,400 30,500
ソロモン 諸 島 12,300 63,200 12,800 25,000 25,100 88,200
合 計 5,472,400 1,647,200 2,416,700 473,800 7,889,100 2,121,000
mooxxooxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxooxxoom
(死没者の死亡の時期)
陸 軍 海 軍 計
昭12.7.7〜 昭12.7.7〜 昭12.7.7〜
昭20.8.14 昭20.8.15〜 昭20.8.14 昭20.8.15〜 昭20.8.14 昭20.8.15〜
日本本土(含周辺) 58,100 0 41,800 4,000 99,900 4,000
小 笠 原 諸 島 2,700 0 12,400 100 15,100 100
沖 繩 諸 島 67,600 300 21,300 200 88,900 500
台 湾 27,200 1,300 10,200 400 37,400 1,700
朝 鮮 11,500 8,100 6,600 300 18,100 8,400
樺太・千島(含アリューシャン) 7,900 300 3,100 100 11,000 400
満 洲 26,000 19,900 500 300 26,500 20,200
中国本土(含香港) 385,200 50,400 19,400 700 404,600 51,100
シ ベ リ ヤ 0 52,300 0 400 0 52,700
中部太平洋諸島 91,000 4,800 149,500 1,900 240,500 6,700
フ ィ リ ピ ン 368,700 8,800 117,900 3,200 486,600 12,000
仏 領 印度支那 6,100 1,800 4,400 100 10,500 1,900
タ イ 4,800 2,100 100 0 4,900 2,100
ビルマ(含印度) 160,400 2,600 1,500 0 161,900 2,600
マライ・シンガポール 6,900 1,600 2,600 300 9,500 1,900
アンダマン・ニコバル 700 200 1,500 0 2,200 200
ス マ ト ラ 2,000 700 500 0 2,500 700
ジ ャ ワ 2,200 500 3,500 300 5,700 800
小 ス ン ダ 51,600 200 1,100 100 52,700 300
ボ ル ネ オ 10,400 900 5,200 1,500 15,600 2,400
セ レ ベ ス 1,300 200 3,900 100 5,200 300
モ ル ツ カ 1,800 800 1,500 300 3,300 1,100
ニューギニヤ 110,000 2,400 15,100 100 125,100 2,500
ビスマルク諸島 15,900 3,800 10,100 700 26,000 4,500
ソロモン 諸 島 62,300 900 24,100 900 86,400 1,800
合 計 1,482,300 164,900 457,800 16,000 1,940,100 180,900
1.本表はもとの陸海軍に属していた軍人および軍属を対象としている。
2.本数字には各地域ともそれぞれの近海域の数が含まれている。
3.本数字には支那事変関係死没者(陸軍181,000人、海軍7,700人)が含まれている。
4.本数字には朝鮮人および台湾人が含まれている。
5.昭和20.8.15以降死没者数には、戦時死亡宣告により死亡したとみなされた者およびその見込みのある者が含ま
れている。
6.死没者欄には在郷死者は含まれていない。
〔「大東亜戦争における地域別兵員及び死没者概数」詳細版、Excel版〕
《「日本の戦争-図解とデータ-」(桑田悦・前原透編著、原書房、1982.10.24発行)及び
「日本陸海軍事典」(原剛・安岡昭男編、新人物往来社、1997.8.15発行)
掲載の図から引用しました。》
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満州事変以降の戦没者及び恩給を受ける戦傷病者の概数一覧
(昭22、9、末 復員庁)
区 分 陸 軍 海 軍 計
戦没者
満州事変関係 15000 250 15000
支那事変関係(昭和16.12迄) 165000 4600 170000
今次戦争
終戦前ニ公報発令済ノモノ 230000 130000 360000
終戦ヨリ昭和22.9末迄ニ公
報ヲ発令シタモノ 1049000 206000 1255000
既ニ死没ト推定セラルルガ
尚今後ノ調査ヲ必要トスル 256000 39000 295000
モノ(ソ連関係ヲ除ク)
計 1715000 380000 2095000
傷病者
増加恩給(年金制)ヲ受ケツツ
アルモノ 53000 5000 58000
傷病恩金(一時金制)ヲ給セシ
タモノ 294000 9000 303000
《国立公文書館デジタルアーカイブ所蔵の画像より引用しました。(原典旧字体)》
http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000558297&ID=M2006041216551139420&TYPE=&NO=
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「大東亜戦争終戦に関する資料」
(昭和20年9月4日から同月6日の第88臨時議会に於て配布された政府作成資料)から
大東亜戦争中陸軍関係損耗表 (陸軍省)
一、大東亜戦争開始以来の人員損耗
戦 死 戦 傷 戦 病 備 考
三一万 一四万六千 四四七万 死亡合計 三五万
(内玉砕二〇万) (内戦病死四万) 戦死傷合計 四五万六千
戦病死 四万 戦死傷病合計 四九二万六千
計 三五万
備考 昭和十六年十二月八日大東亜戦争開戦時保有せし陸軍兵力は一九〇万にして
終戦時に於ける兵力は約五五〇万なり
大東亜戦争中海軍関係損耗表 (海軍省)
第一表 大東亜戦争中海軍軍人軍属戦没者一覧表
八月二十八日 同上所在 計
戦没時の官職 現在戦没者数 不明者数
大 将 二 − 二
中 将 九 − 九
少 将 三六 − 三六
大 佐 二五九 − 二五九
中 佐 二五七 一 二五八
少 佐 五〇七 二 五〇九
大 尉 二、一〇七 一八 二、一二五
中 尉 二、〇四四 二四 二、〇六八
少 尉 二、〇八七 二 二、〇八九
候補生予備学生 一六五 − 一六五
見 習 尉 官 二〇 − 二〇
┌大尉 三〇二 九 三一一
特務士官│中尉 六四八 一〇 六五八
└少尉 九八五 一四 九九九
准 士 官 四、二三六 五四 四、二八九
准士官以上 計 一三、六六四 一三三 一三、七九七
下 士 官 五〇、九三一 五七一 五一、五〇二
兵 九〇、二〇〇 六七七 九〇、八七七
下士官、兵 計 一四一、一三一 一、二四八 一四二、三七九
軍 人 計 一五四、七九五 一、三八一 一五六、一七六
軍 属 二、五二六 四九 二、五七五
軍人、軍属合計 一五七、三二一 一、四三〇 一五八、七五一
(註) 本表中特攻隊戦死者員数左の通り
准士官以上 下士官、兵 計
六六五 一、四〇〇 二、〇六五
本数字は連合艦隊司令長官の全軍布告ありたる者のみにして右の外
尚若干の特攻隊員あり
「大東亜戦争終戦に関する資料」
《「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録・下巻」(外務省編纂,1990.12.23第1刷,山手書房新社発行)
及び「終戦史録」(外務省編纂,S27.5.1,新聞月鑑社発行)から引用しました。原典旧字体縦書き》
関連:終戦記録 議会への報告書並に重要公文書輯/朝日新聞社編/S20.11.15(国立国会図書館デジタル化資料)、コマ番号47-49
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041959>
太平洋戦争による我国の被害総合報告書/経済安定本部総裁官房企画部調査課/S24.4.7(国立公文書館デジタルアーカイブ)
<http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=eng&BID=F2007021516460707126&ID=&TYPE=&NO=>
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第152回国会(臨時会)において平成13年8月10日衆議院議長に提出された衆議院議員保坂展人氏(社会民主党・市民連合)による質問第15号「大東亜戦争」と靖国神社に関する質問主意書 に対する小泉純一郎内閣総理大臣の答弁書(平成13年8月28日答弁第15号)から
一 戦争(23) 第二次世界大戦の戦死者は何人か。日本も含め国別で示されたい。
一の(23)について
お尋ねの我が国における「第二次世界大戦の戦死者」の数については、「第二次世界大戦の戦死者」の具体的な範囲が必ずしも明らかではないが、政府としては、昭和三十八年五月十四日の閣議決定(戦没者追悼式の実施に関する件)において、同年八月十五日に実施する全国戦没者追悼式における戦没者の範囲について、「支那事変以降の戦争による死没者(軍人・軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含む者とする。)とする」と決定したところである。そして、政府としては、右の戦没者の数について、約三百十万人であるとしてきたところである。
また、我が国以外の国における「第二次世界大戦の戦死者」の数については、これを政府又は政府関係機関において公表している国及びその公表数は、調査した限りでは、別紙四のとおりであると承知している。
別紙四
国 名 軍 人 の 死 者 数 民間人の死者数 そ の 他
グレート・ブリテン及び 三百五十万二百六十六人 六万五百九十五人
北部アイルランド連合王国
フランス共和国 約二十九万三千人 約二十八万七千人
チェッコ 軍人及び民間人を合わせ約三十二万人
ポーランド共和国 約十二万三千人 約五十二万千人 いわゆるテロ行為等による死
者数 約五百三十八万四千人
ルーマニア 九万二千六百二十人
カナダ 軍人及び民間人を合わせ約四万五千人
中華人民共和国 軍人及び民間人を合わせ死傷者約三千五百万人
オーストラリア連邦 三万九千四百二十九人 七百三十五人
ニュー・ジーランド 一万千六百二十五人
<http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a152015.htm>
<http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b152015.htm>
《衆議院ホームページ 質問主意書・答弁書のページから》
関連:昭和48年7月3日第071回国会参議院社会労働委員会<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/071/1200/07107031200016c.html>
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【世界各国の戦争犠牲者数等】
第二次世界大戦における人的損害
国 別 軍 人 一 般 人
戦死、 傷病死 捕虜および 戦争に起因 死者総計
および収容所 負 傷 行方不明* する死亡 (推定) *=2)
での死亡1)
連合国
ベ ル ギ ー 12,000 76,000 88,000
ブ ラ ジ ル 943 4,222 1,000
イギリス連邦 373,372 475,047 251,724* 92,673 466,000 *=3)
オーストラリア 23,365 39,803 32,393 24,000
カ ナ ダ 37,476 53,174 10,888 38,000
イ ン ド 24,338 64,354 91,243
ニュージーランド 10,033 19,314 10,582 10,000
南 ア フ リ カ 6,840 14,363 16,430 7,000
イ ギ リ ス 264,443 277,077 213,919 92,673* 357,000 *=4)
諸 植 民 地 6,877 6,972 22,323 7,000
中 国 1,310,224 1,752,951 115,248 5)
チェコスロバキア 10,000 215,000 225,000 6)
デ ン マ ー ク 1,800 2,000* 4,000 *=7)
フ ラ ン ス 213,324 400,000 350,000 563,000 8)
ギ リ シ ア 88,300 325,000 413,000 9)
オ ラ ン ダ 7,900 2,860 200,000 208,000
ノ ル ウ ェ ー 3,000 7,000 10,000
ポ ー ラ ン ド 123,178 236,606 420,760 5,675,000 5,800,000 10)
フ ィ リ ピ ン 27,000 91,000 118,000
アメリカ合衆国 292,131 671,801 139,709 6,000 298,000 11)
ソ 連 11,000,000 7,000,000 18,000,000 12)
ユーゴスラビア 305,000 425,000 1,200,000 1,505,000
枢軸国
ブ ル ガ リ ア 10,000 10,000 20,000 13)
フィンランド 82,000 50,000 2,000 84,000
ド イ ツ 3,500,000 5,000,000 3,400,000 780,000 4,300,000 14)
ハ ン ガ リ ー 200,000 170,000 290,000 490,000 13)
イ タ リ ア 242,232 66,000 350,000 152,941 395,000 15)
日 本 1,300,000* 4,000,000 810,000 672,000 1,972,000 *=16)
ル ー マ ニ ア 300,000 100,000 200,000 500,000 13)
注 1)普通の死, あるいは自殺者数はできるかぎり除いた
2)抑留中の死亡者数はできるかぎり除いた
3)1946年現在行方不明者(一部は死亡と推定される)を含む
4)この内訳は空襲による死亡60,595, 商船乗組員関係30,248, 婦人補助部隊624, 市民防護団1,206である
5)中国関係の数字は1946年発表による1937〜45年の国民党政府軍死傷者数を示し, 地方軍および共産軍のそれ
を含まない.一部の統計は戦死220万, 一般人死者2,300万と推定しているが信憑性に乏しい
6)軍人欄は連合国側に立って戦ったもののみを示し, ズデーテンのドイツ人その他ドイツ軍の兵役についたも
のは含まれない
7)連合国側に立って勤務した商船乗組員を含む
8)1939〜40年の戦いにおける戦死者, 「自由フランス」のドゴール派の戦死者, 1941〜42年にシリア, 北アフ
リカで枢軸軍と戦ったフランス人部隊の戦死者 1,200, 1942〜45年にドイツ軍に降伏, 再武装して連合軍と
戦ったフランス軍の戦死者を含む
9)1946年に発表されたこの数字は過大とみられる.軍人戦死者数に商船乗組員のそれが含まれる
10)死亡軍人に関する数字は1946年発表のポーランド政府声明から引用したもので, 1939年の戦闘, 地下抵抗活
動, イギリス軍およびソ連軍に参加したポーランド人部隊およびワルシャワ叛乱の際の損害を含む.ユダヤ
人320万を含む一般人死者数も前述声明を基礎とし, これに人口問題専門家による若干の修正を加えた
11)軍人死傷数には陸軍地上部隊, 同航空隊, 海軍, 海兵隊および沿岸警備隊のそれを含む.その他, 戦闘によ
らないアメリカ軍人の死者は総数 115,187である.1946年現在死亡または行方不明の一般人の数には商船乗
組員5,638が含まれる
12)ソ連軍の損害について入手しうる統計数字はそれぞれの間に大きな開きがある.ベルリンの最高司令部に勤
務し, 1949年に退役したソ連軍の一将校によれば, ソ連軍の損害総数は1,360万, うち850万が戦死ないし行
方不明, 260万が捕虜収容所で死亡, および傷病死者250万であったとし, 一般人死者は推定700万という.
ドイツではこの数字が広く信ぜられているが, ソ連政府発表を基礎にしたアメリカ側の推定は, ソ連軍戦死
者を600万から750万としているのが多い.1959年に実施されたソ連の国勢調査に基づく年齢別・性別人口分
布を基礎にして算定すると, 戦死者数はこのソ連軍将校の数字のほうが信憑性があると思われる.同調査は
第二次世界大戦中に兵役適格年齢の男子が1,500〜2,000万死亡したことを示唆しているからである.表中の
数字は中間をとった妥協の数字であって, 実際の損害は西側にはわからない
13)断片的な資料に基づく推定
14)軍人部内に関する推定数は, ドイツ国外から入ってきてドイツ軍に勤務したものを含み, 1955年現在ソ連領
内で行方不明とされている125万のうち約100万はすでに死亡したとの仮定に立つものである.その他ドイツ
軍人で普通の死をとげたもの, 自殺したもの, ないし処刑されたものは25万に達すると思われる.民間人に
関する数字はドイツとオーストリアのみに限定し, 反撃に転じたソ連軍の進攻, および戦後ポーランドに復
帰した東部諸州への強制移住に伴う1944〜46年のドイツ人死者推定2,384,000は含まれない
15)死者数にはイタリア政府が1952年に発表した行方不明者数(軍人131,419, 一般人3,651)を含むが, 普通の
死ないし自殺による死亡軍人49,144を含まない. 戦闘行為による戦死者は110,823と判明しており, 行方不
明者を除外した死亡軍人数は, 総計159,957である. そのうち92,767は1943年の休戦協定締結前の数字で,
67,190はそれ以前のものである
16)1949年現在ソ連領内で行方不明になっているものの約半数は死亡したと推定され, これを加えると全死者数
は160万となる.この推定死亡者のうち, 約30万は直接戦闘と関係のない死因と思われるので除いてある
第一次世界大戦における動員兵力と人的損害
動員兵力に対
国 別 動員兵力 死 者 負 傷 者 捕虜および 人的損害 する人的損害
行方不明者 の 合 計 の比率(%)
連合国側
ロ シ ア 12,000,000 1,700,000 4,950,000 2,500,000 9,150,000 76.3
フ ラ ン ス 8,410,000 1,357,800 4,266,000 537,000 6,160,800 73.3
イ ギ リ ス 8,904,467 908,371 2,090,212 191,652 3,190,235 35.8
イ タ リ ア 5,615,000 650,000 947,000 600,000 2,197,000 39.1
アメリカ合衆国 4,355,000 116,516 204,002 4,500 325,018 8.1
日 本 800,000 300 907 3 1,210 0.2
ル ー マ ニ ア 750,000 335,706 120,000 80,000 535,706 71.4
セ ル ビ ア 707,343 45,000 133,148 152,958 331,106 46.8
ベ ル ギ ー 267,000 13,716 44,686 34,659 93,061 34.9
ギ リ シ ア 230,000 5,000 21,000 1,000 27,000 11.7
ポ ル ト ガ ル 100,000 7,222 13,751 12,319 33,291 33.3
モンテネグロ 50,000 3,000 10,000 7,000 20,000 40.0
小 計 42,188.810 5,142,631 12,800,706 4,121,090 22,064,427 52.3
同盟国側
ド イ ツ 11,000,000 1,773,700 4,216,058 1,152,800 7,142,558 64.9
オーストリア=ハンガリー 7,800,000 1,200,000 3,620,000 2,200,000 7,020,000 90.0
ト ル コ 2,850,000 325,000 400,000 250,000 975,000 34.2
ブ ル ガ リ ア 1,200,000 87,500 152,390 27,029 266,919 22.2
小 計 22,850,000 3,386,200 8,388,448 3,629,829 15,404,477 67.4
合 計 65,038,810 8,528,831 21,189,154 7,750,919 37,468,904 57.5
〈アメリカ合衆国陸軍省の報告(1924年2月)による。ただし、アメリカ合衆国分については1957年11月に国防省の修正を受けている。〉
《『ブリタニカ国際大百科事典』から》
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連合国、枢軸国および中立国(アルファベット順)
連合国 アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、ボリビア、ブラジル、カナダ、チリ、
中国、コロンビア、コスタリカ、キューバ、チェコスロバキア、デンマーク、
ドミニカ、エクアドル、エジプト、エチオピア、フランス、ギリシア、グアテマラ、
ハイチ、ホンジュラス、インド、イラン、イラク、レバノン、リベリア、
ルクセンブルク、メキシコ、オランダ、ニュージーランド、ニカラグア、
ノルウェー、パナマ、パラグアイ、ペルー、フィリピン、ポーランド、
エルサルバドル、サウジアラビア、シリア、トルコ、南アフリカ連邦、アメリカ、
ソ連、イギリス、ウルグアイ、ベネズエラ、ユーゴスラビア
枢軸国 ブルガリア、フィンランド、ドイツ、ハンガリー、イタリア、日本、ルーマニア、
タイ
中立国 アフガニスタン、アイルランド、ポルトガル、スペイン、スウェーデン、スイス
第2次世界大戦における人的被害
国名 兵員 一般市民 合計
死亡 負傷 行方不明
ア メ リ カ 314,094 668,653 151,597 1,134,344
イ ギ リ ス 353,652 475,070 90,844 60,595 980,161 (1)
フ ラ ン ス 166,195 408,895 174,620 749,710
ソ 連 13,600,000 7,000,000 20,600,000 (2)
ポ ー ラ ン ド 597,320 5,000,000 5,597,320
ユーゴスラビア 1,685,000 1,685,000
オーストリア 700,000
チェコスロバキア 500,000
中 国 1,310,224 1,752,591 115,248 3,178,063
ド イ ツ 2,100,000 4,000,000 2,900,000 500,000 9,500,000 (3)
イ タ リ ア 389,000 214,647 179,803 783,450
日 本 1,174,474 4,616,000 1,483 672,000 6,463,857
(1,555,308) (309,402) (668,315) (4)
56,460,000 (5)
注:The World Almanac(1949年)による。(1)イギリス連邦諸国を含む。(2)ソビエト連邦の
概数は W.Schumann/G.Hass(hrsg.)Deutschland im Zweiten Weltkrieg Bd.6による。
(3)ドイツ軍の戦死、行方不明の75%は東部戦線。(4)日本の( )内数は経済安定本部
「太平洋戦争によるわが国の被害総合報告書」(1949年)による。(5)1945年11月21日バ
チカン教皇庁が発表した累計による。
両次世界大戦の比較(表1)
第1次(1914〜18年) 第2次(1939〜45年)
交戦国 36 61
動員兵力 70(百万) 110(百万)
戦死者 10(百万) 50(百万)
戦傷者 20(百万) 35(百万)
直接戦費 208(十億ドル) 1,117(十億ドル)
第2次世界大戦におけるソ連の被害概数(表2)
都市 1,710
村 70,000
住宅 66(百万u)
工場 31,800
鉱山 1,138
コルホーズ、ソフホーズ 99,876
機械・トラクターセンター 2,890
橋 13,000
鉄道 65,000(km)
注:(表1)(表2)ともに W.Schumann/G.Hass(hrsg.)Deutschland im Zweiten Weltkrieg
Bd.6 Akademie Verlag, Berlin (Ost.),1985年による
《『日本大百科全書』(小学館)から》
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大戦の死傷者数 1939−45年
■戦死者 ▲民間人の死者 ●多数の民間人の収容者 *相当の被害を受けた都市
中国(満州を含む)■ 1,324,000(1000万人まで) *南京
オーストラリア ■ 29,395 ●日系およびイタリア系市民
ニュージーランド ■ 12,162
イ ン ド ■ 36,092
カ ナ ダ ■ 39,319
アメリカ合衆国 ■ 292,100 ●日系市民
日 本 ■ 1,506,000 ▲ 300,000 *東京、 神戸、 広島、 長崎
南アフリカ連邦 ■ 8,681
ブ ラ ジ ル ■ 943
ポ ー ラ ン ド ■ 850,000(連合国軍として 169,822人) ▲ 5,778,000 *ワルシャワ
ノ ル ウ ェ ー ■ 4,780(商船の乗組員を含む)
デ ン マ ー ク ■ 4,339
イ ギ リ ス ■ 271,311 ▲ 60,595 ●ドイツ系新移民 *ロンドン、コヴェントリー
オ ラ ン ダ ■ 13,700 ▲ 236,300 *ロッテルダム
ベ ル ギ ー ■ 9,561 ▲ 75,000
フ ラ ン ス ■ 210,671 ▲ 173,260 *カーン
ユーゴスラヴィア ■▲1,700,000
ギ リ シ ャ ■ 16,357 ▲ 155,300
ソヴィエト連邦 ■約1450万人(約950万人は東部戦線で、そのうち300万人は戦争捕虜として、
約200万人は極東戦線で) ▲700万人以上 ●「国家の敵」、ソ連西部の新し
く獲得された領土の人々 *レニングラード、 キエフ、 ハリコフ、
スターリングラード、 セヴァストポリ、 ケーニヒスベルグ
(約550万人のソ連人捕虜が東部戦線で収容される。約100万人は解放された
後、ソ連軍に殺害される。約80万人はナチスに協力し死を免れる。)
ス ペ イ ン ■ 4,500(枢軸国側) 7,500(連合国側) ■▲10,000(強制収容所で)
ド イ ツ ■ 2,850,000 ▲ 2,300,000 ●「国家の敵」、ユダヤ人、ジプシー、
共産主義者、同性愛者 *ベルリン、 ドレスデン、 ハンブルグ、
ブレーメン、 ハノーファー、 ドルトムント、 デュッセルドルフ、
ケルン、 フランクフルト、 ヴュルツブルグ、 ミュンヘン
イ タ リ ア ■ 279,820(連合国軍として17,400人) ▲93,000 ●共産主義者、
反ファシスト *ミラノ、 ジェノヴァ、 ボローニャ
オーストリア ■ 380,000 ▲ 145,000
ハ ン ガ リ ー ■▲ 750,000
ル ー マ ニ ア ■ 519,822 ▲ 465,000 *プロイエシュティ
ブ ル ガ リ ア ■ 18,500 ▲ 1,500
フィンランド ■ 79,047
民間人が直接攻撃を受けた国(殺された人口の割合…☆10%以上 ◇5−10% △1−5%)
ソヴィエト連邦☆、 ポーランド☆、 ユーゴスラヴィア☆、 ドイツ◇、 オーストリア◇、
ギリシア◇、 フィンランド△、 ノルウェー△、 イギリス△、 オランダ△、 フランス△、
ハンガリー△、 ルーマニア△、 ほか
中 国、 満 州、 朝 鮮、 日 本、 フィリピン諸島、 イギリス領北ボルネオ、
オランダ領東インド諸島、 サラワク、 マレー、 ニューギニア、 シリア、 イラク、
アルジェリア、 リビア、 イギリス領ソマリランド、 イタリア領ソマリランド、 エリトリア、
ジブチ、 エチオピア、 マダガスカル島
死傷者数
第2次世界大戦における死者数は史上最高であった。第2次大戦では、スターリングラード、ノルマンディー、ベルリンの戦闘のような、第1次大戦での最悪の戦闘に匹敵する激戦が数多く行なわれた。また、この戦争では戦場以外でもきわめて大量の死者が出た。それをもたらしたものは、一般市民への直接爆撃、攻囲戦による欠乏状態(レニングラードでは1941年11月から1944年1月までに50万人以上の市民が死亡した)、農業や食糧供給の破壊、ユーゴスラヴィアだけでも 1941年から1945年の間に 100万人以上の住民が失われたような、 ゲリラ戦での大量殺戮と報復攻撃、1945年だけで 200万人のドイツ人の命を奪った逃亡や強制退去、1942年から1945年までに 600万人の死者を出したヨーロッパ系ユダヤ人――とくにポーランドに居住する――の組織的抹殺であった。
西側連合国に対する枢軸国の戦闘では、捕虜や負傷者、非戦闘員の人道的取り扱いを保障するジュネーヴ協定の遵守が義務づけられた。連合国側の手に落ちた枢軸国の捕虜は、多くが食料の豊富な北アメリカやアフリカの収容所に送られたので、とくによい処遇を受けた。枢軸国側の手にあった連合国の捕虜の処遇はそれほどよくなかったが、ほとんどは正しい取り扱いを受けた。ただし、戦争終結時に、解放軍の進軍から引き離すために、多くが強制的な行進を強いられた。日本軍の手にあった西側の捕虜は、半飢餓状態におかれたり、科学実験の被験者にされたり、強制労働や爆撃目標に近い収容所に監禁されるなど、さまざまな虐待を受けた。ドイツの収容所にいたソ連軍捕虜は何百万人も死んだ。初めは施設に対して収容人員が圧倒的に多かったためであったが、後には多くが意図的に、死ぬまで働かされるか、餓死するよう放置された。ソ連は1943年まで、捕虜の扱いに関する規則を取り入れなかった。ソ連は約 200万人のドイツ人を捕えた。 ソ連軍にも欠乏があったので、ソ連の捕虜取り扱いはひいき目に見てもいい加減なものであった。1945年8月の日本の降伏以前には、連合国の捕えた日本人捕虜はごくわずかであった。日本人は最後の一人まで戦う決意で、ほとんどが捕虜としての辱めを受けるよりは自決を選んだ。しかし、ソ連は、1945年8〜9月に 100万人を超える日本人捕虜を得たが、その多くは再び帰国できなかった。
捕虜取り扱いの監視は、スイスに本部のある国際赤十字が行なった。赤十字の代表はドイツや連合国の捕虜収容所視察を許されており、戦争前には制限付きではあったが、強制収容所の視察も許可されていた。しかし、日本とソ連の両国は、一貫して視察団を拒否し続けた。
1941年以降、すべての交戦国は、人口の集中する大都市への攻撃についての制限を放棄した。このことは、ヨーロッパの都市を襲った惨状を見るだけでも明らかである。ローマとパリだけはその文化的重要性のため名目上の解放都市と宣言された。しかし、ワルシャワは退却するドイツ軍によって、(1944年11〜12月)完全に破壊された。大規模な都市爆撃によって、 ドイツで60万人、日本で50万人、イギリスで60万人の市民が犠牲となった。 また、ポーランド、フランス、イタリア、ベルギー、オランダでも爆撃によりかなりの死者を出した。しかし、交戦国でも統治機構が無傷であった国では、第1次世界大戦中同盟国を悩ませた窮乏や伝染病による死傷者を出すことはなかった。効率のよい配給や医療制度によって、ドイツや西ヨーロッパ諸国の市民の健康は良好に保たれた。アメリカでは戦争による市民の死傷者はほとんどなかった。ソ連、東ヨーロッパ、南ヨーロッパや中国では、戦争による市民の死者数はきわめて多かった。中国で日本軍に殺された人数を1000万人としている統計もいくつかある。
ゲリラ戦、内乱、人口の強制移動、これらは1939年から1945年に東ヨーロッパや南ヨーロッパの国々を、1937年以降は中国の広範な地域を悩ませ多くの人命が失われた。枢軸国の占領に対するレジスタンス運動の激しかったギリシアでは、14万人の戦死者数のうち12万人あまりが報復、党派間の戦い、虐殺、国外追放による犠牲者であった。ソ連の1100万人の民間死者数のほとんどは直接の圧制や戦争による窮乏の犠牲者であった。しかし第2次世界大戦中、最も多くの死者を出した単一の原因は、ドイツ国防軍とソ連軍との間の戦争であった。この戦争で少なくとも1100万人の兵士が戦死し、2500万人が負傷したが、そのほとんどがソ連兵であった。
戦死者の総数は厳密な計算と矛盾するが、通常、全世界で4000万人から5000万人の間と推定されている。第2次大戦は、第1次世界大戦と異なり、空襲や略奪、虐待、意図的な虐殺などによって直接、膨大な数の民間人の死者を出したが、その数は戦闘での死者数に匹敵した。 軍人と民間人の両方の戦死者は、 アジアよりもヨーロッパの方が多く、また、西よりも東ヨーロッパの方が多かった。これは東ヨーロッパでの戦闘の残虐性を示している。赤軍は戦闘で1150万人ちかくの死者を出した。さらに 300万人のソ連兵士はドイツの捕虜として死んだ。ドイツ国防軍は 300万人ほど、日本は 150万人の、戦闘における死者を出した。西側連合国の戦死者の最高総数は、イギリス軍約25万人、米軍約30万人、そしてフランス軍約20万人であった。民間人の死者数が最も多いのは、ソ連( 700万人以上、ほとんどが非ロシア人)、中国(数百万人、しかし未確認)、および60万人が空襲で死に、 200万人近くが1945年の東からの引き揚げの際に死んだドイツ人であった。個々の国では、ポーランドが、戦前の人口の18パーセントにあたる 600万人の国民を失い、最悪の被害を受けた。そのうちのほとんど半数がユダヤ人で、ヨーロッパ中で、 600万人のユダヤ人が、戦争中のナチによる意図的な政策によって殺された。戦時中の捕虜で最も多数であったのは、ドイツ軍によるソ連兵捕虜であった。捕えられた 500万人のソ連兵捕虜のうち、 400万人が死んだが、そのうち 300万人はドイツ軍の管理下で死んだ。残りの 100万人は、1945年以降ソ連に帰る途中の強制労働収容所で死んだと考えられている。約 100万人のフランス人捕虜は、1940年から1945年の間、ドイツに捕えられていた。何十万人ものイギリス、アメリカ、イタリア(1943年以降)、ポーランド兵捕虜や他の国籍の兵士もまた、ドイツ本国内のあちこちに配置された収容所に捕えられていた。 1939年には、約20万人のポーランド兵がソ連の捕虜となった。 1万5000人の将校が姿を消し、4500人ほどの将校が、カティンで虐殺された。1945年には約1000万人のドイツ兵と 600万人の日本兵が連合国の捕虜となった。東洋では、6万1000人を超えるイギリス、オーストラリア、オランダ兵が、1941〜42年の日本の東南アジアにおける開戦時の作戦で捕虜となり、そのうち1万2000人が、ビルマ鉄道建設のために、現地の奴隷労働者とともに働かされ、死亡した。1942年にマレーで捕えられた4万5000人のインド兵のうち、4万人ちかくが、インド人民族主義者、サッバス・チャンドラ・ポースによって設立され、日本の援助を受けたインド国民軍に参加することに同意した。
《「第二次世界大戦歴史地図」(ジョン・キーガン編 滝田毅ほか訳 1994.10.5発行 原書房 P204-205)から》
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近代における戦争の死傷者と戦費
第二次大戦推定死傷者数・直接戦費
推定死傷者数(人)
国 名 死者及び 直接戦費
最大兵力 行方不明 負 傷 (単位100万ドル)
連合国
オーストラリア 680,000 37,637 25,856 12,544
ベ ル ギ ー 800,000 22,651 14,500 7,905
ブ ラ ジ ル 200,000 975 4,222 …
カ ナ ダ 780,000 42,666 53,145 25,131
中 国 5,000,000 1,500,000 2,000,000 51,348
チェコスロバキア 180,000 6,683 8,017 …
デ ン マ ー ク 15,000 6,400 … 3,000
フ ラ ン ス 5,000,000 245,000 390,000 139,091
ギ リ シ ャ 414,000 17,024 47,290 …
イ ン ド 2,150,000 48,674 65,174 6,003
オ ラ ン ダ 500,000 230,177 … 12,032
ニュージーランド 157,000 10,764 19,345 3,200
ノ ル ウ ェ ー 25,000 1,598 364 1,240
ポ ー ラ ン ド 1,000,000 550,000 320,000 …
南 ア フ リ カ 140,000 9,500 15,000 2,692
ソ 連 12,500.000 6,115,000 14,012,000 116,266
イ ギ リ ス 4,683,000 403,105 369,267 62,233
ア メ リ カ 16,112,566 545,108 670,846 312,803
ユーゴスラビア 500,000 305,000 425,000 …
計 50,836,566 10,098,052 18,440,026 755,488
枢軸国
オーストリア 800,000 220,000 300,000 …
ブ ル ガ リ ア 450,000 18,500 19,000 …
フィンランド 250,000 76,893 … …
ド イ ツ 9,200,000 3,250,000 7,250,000 265,420
ハ ン ガ リ ー 350,000 147,435 89,313 …
イ タ リ ア 4,000,000 380,000 225,000 26,440
日 本 6,095,000 2,565,878 326,000 51,590
ル ー マ ニ ア 600,000 73,000 49,000 …
計 21,745,000 6,731,706 8,258,313 343,450
総 計 72,581,566 16,829,758 26,698,339 1,098,938
(出所:Collier's Encyclopedia vol.23,1963)
日清・日露戦争死傷者数、直接戦費等
日清戦争(明治27年8月〜28年4月)
日 本 軍 の 損 害 清 国 軍 の 損 害
(1) 人 員
戦死・戦傷死 1,567名 損失の細部は不明
病 死 12,081名 日本軍が捕獲したものは
変 死 176名 兵員1,790名、 火砲592門その他である
計 13,824名
戦 傷 3,973名
戦傷による
服 役 免 除 3,794名
合 計 17,282名
(2) 軍 馬 11,532頭
(3) 戦 費 233,400,000円
日露戦争(明治37年2月〜38年10月)
日 本 軍 の 損 害 露 国 軍 の 損 害
(1) 人 員 人 員 約115,000名
死亡及び服役免除者 軍事費 約218,000万円以上
約118,000名 日本側で収容した捕虜その他は次のとおり
そ の 他 約 2,000名 捕 虜 79,454名
(2) 軍 馬 約 38,050頭 捕 獲 馬 3,983頭
(3) 艦 船 91隻 軍 旗 3
軍 艦 12隻 火 砲 953門
水雷艇、 仮装砲艦、 閉塞船 小 銃 等 140,904丁
25隻 撃沈又は捕獲艦船 98隻
輸送船等 54隻 抑留又は武装解除艦船 7隻
(4) 戦 費 1,826,290,000円
(資料源)「明治27.28年戦没統計」「明治27.28年海戦史」「明治37.38年戦没統計」
「明治37.38年海戦史」「昭和財政史(第4巻)=大蔵省昭和財政史編集室」
「国防大事典」(昭和7年)
ベトナム紛争と朝鮮戦争における米軍兵力、死傷者数、戦費の比較
ベ ト ナ ム 紛 争 朝 鮮 戦 争
現 地 米 軍 543,400人 327,000人
(44.4月末現在従来のピーク) (ピーク時)
周辺地域の (44.4月末) 730,000人 472,000人
関連米軍を 第7艦隊(35,000人)┓ (ピーク時)
含む場合 在 タ イ(48,000人)┃
(ピーク時) 在 比(30,000人)┃を含む
在 沖 縄(50,000人)┃
在グアム(15,000人)┛
米軍死傷者 (47.11.30サイゴン米軍司令部発表)
死 者 56,201人 33,629人
負 傷 3,035,534人 103,284人
(36.1.1〜47.11.23)
米 軍 総 数 (ピーク時) 335万人 360万人
(44.11.30現在) (ピーク時)
年 間 戦 費 1965会計年度 1.03億ドル(見積)
1966 〃 58.12 〃
1967 〃 201.33 〃
1968 〃 265.47 〃
1969 〃 288.05 〃 平均60億ドル
1970 〃 230.52 〃
1971 〃 147.19 〃
1972 〃 90.76 〃 (見積)
1973 〃 60.19 〃 (見積)
イラン・イラク戦争の軍事費、死傷者数
イ ラ ン イ ラ ク
(1)軍 事 費 493億ドル (1)軍 事 費 901億ドル
(2)外国借款 34億ドル (2)外国借款 850億ドル
(3)死傷者数(推定) (3)死傷者数(推定)
死 者 25万人 死 者 10万人
負傷者 50万人 負傷者 15万人
(資料源) 1988.8.10付 読売新聞
≪「防衛ハンドブック(平成4年版)」(H4.3.31 朝雲新聞社)から≫
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【アジア諸地域の戦争被害】
アジア太平洋戦争におけるアジア諸地域の戦争被害
(死者、経済的・物的損害額、日本が獲得した資源)
地 域 死亡者(人) 損害額($) 日本が獲得した鉱産資源/食料など
日 本 3,100,000以上
朝 鮮 約200,000 不詳 鉄鉱石/米/大麻
中 国 10,000,000以上 5,000億 (中国本土) 鉄鉱石、石炭、ボーキサイト、
タングステン/小麦/綿花、大麻
(「満州国」) 鉄鉱石、石炭、ボーキサイト
/小麦、大豆、とうもろこし、羊毛/大麻
台 湾 30,000余 不詳 米、砂糖
フ ィ リ ピ ン 約1,110,000 58億5,000万 鉄鉱石、クローム、銅、マンガン/砂糖
/マニラ麻、コプラ
ベ ト ナ ム 約2,000,000 不詳 石炭、タングステン/米、とうもろこし
/ジュート
タ イ 不詳 不詳 錫/米
ビ ル マ 約150,000 不詳 タングステン、ニッケル、石油、鉛、亜鉛
/米、落花生、とうもろこし/ジュート
マレーシア・シンガポール 100,000以上 不詳 錫、鉄鉱石、ボーキサイト、タングステン
/ゴム
インドネシア 約4,000,000 数十億 石油、ボーキサイト、ニッケル、石炭、錫
/砂糖、とうもろこし
/ゴム、キニーネ、コプラ
イ ン ド 約1,500,000 不詳
オーストラリア 17,744 不詳
連合軍将兵・
民間人・捕虜 約6万数千 (オーストラリアの死者のうち約8,000と重複)
合 計 日本を除く死者:1,900万人以上
人的・物的被害は、原則として政府の公式発表の数字(「アジア太平洋戦争の被害」『世界』1994年2月号所収)。
日本が獲得した資源は、岡部牧夫「『大東亜共栄圏』その資源・日本軍の加害と被害」(『週刊朝日百科・日本の
歴史』第119号、1988.7.31)による。
表に掲げた数字は、原則として戦後における各国政府の公式発表、公式文書に記されたものである。各国の死亡者は、日本軍による抗日ゲリラ「討伐」による犠牲者、連合軍との戦闘に巻き込まれたもの、日本による資源の開発・収奪にともなう強制労働に起因するもの、日本軍の「現地自活」「現地調達」のための食糧徴発(住民の食糧不足)がまねいた病死・餓死が含まれている。
ベトナムの約二百万人といわれる死者の大部分は、日本軍による食料収奪と飢饉による病死者・餓死者であるとされている。インドの死亡者は、直接、日本軍によるものとはいえないが、戦争にともなう食料不足(ベンガル飢餓)によるものである。インドネシアでも、膨大な数の「ロームシャ」の徴用と日本軍の「現地自活」にともなう食料不足のための犠牲者は、四百万人におよぶとされている。「兵補」として戦場にかり出された人々からも犠牲者がでている。
マレーシア・シンガポールでの犠牲者の多くは、日本軍による抗日勢力「粛清」によるものである。英領マレー(現マレーシア)では、中国系の住民に対して日本軍は、中国本土でおこなったのと同じように、ゲリラ討伐を口実に村落ごと殲滅する作戦を各所でおこなった。シンガポールでの反日・抗日派に対する「大検証」(逮捕・虐殺)も、日本軍がアジアの人々を敵にした隠すことのできない事件の一つである。
フィリピンにおける犠牲者も、日本軍と米軍との戦闘に巻き込まれた(とりわけ一九四五年一月〜三月のマニラ攻防戦で一般市民十万人が死亡したといわれている)だけでなく、日本軍による「治安粛清」 すなわちゲリラ討伐によって殺害された人々が多数ふくまれている。
*引用資料から、戦争犠牲者数やそれに関連した記述のいくつかを、要約して記しました。
南京大虐殺〈南京アトロシティーズ(残虐事件)〉
1937.12.13の日本軍の南京占領時及びその後の約二ヶ月間にわたって、捕虜や住民の虐殺、強姦、放火、略奪などの残虐行為が続けられた。現在では十数万人から二十万人が虐殺されたという見解が主流。中国側は三十万人が虐殺されたという見解。
重慶無差別爆撃
1939年から41年まで、三次にわたって行われた重慶に対する無差別・戦略爆撃による犠牲者は、中国の発表によれば、死者一万九千人、負傷者一万四千人に達したとされている。
三光作戦
日本軍による、住民殺戮、破壊、略奪を目的にした燼滅・粛清作戦〈殺光=殺し尽くす、焼光=焼き尽くす、搶光=奪い尽くす〉。主に華北の中国共産党・八路軍の抗日根拠地に対して行われた。作戦命令の中で、「敵及土民を仮想する敵」と「敵性ありと認むる住民中十五歳以上六十歳迄の男子」は「殺戮」すること、敵が隠匿したり集積している武器弾薬や糧秣などは「押収」するか 「焼却」すること、「敵性部落」は「焼却破壊」することが指示され、「徹底的に敵根拠地を燼滅掃蕩し、敵をして将来生存するに能はざるに至らしむ」ことが意図された。大量の毒ガス兵器も使用された。抗日根拠地の「無人区」化が図られた。1941年から42年にかけて、華北の抗日根拠地とされた地域の人口は、四千万人から二千五百万人に減少したと見られている。
シンガポール・マレー半島の華僑虐殺
1942. 2.15、日本軍はマレー半島全土を占領。その直後、第二五軍司令官山下奉文は、シンガポール、後にマレー半島全域の華僑粛清命令を出した。「敵性」と断じた者は直ちに処刑せよと。シンガポールでは四〜五万人が虐殺されたとされている。マレー半島では数万から十万人にのぼると見られている。
フィリピンの住民虐殺
ゲリラ討伐の名目で粛清作戦が実施された。大規模な虐殺は、戦争末期、米軍が上陸し日本軍が追い詰められる中で起こっている。村人を子供から老人まで皆殺しにした。フィリピンの日本軍による虐殺の犠牲者数は数十万人にのぼると見られるが、一部を除いてほとんど調査もされていない。
泰緬鉄道
1942年6月着工、翌年10月完成の415キロに及ぶ鉄道。建設に多くの連合軍捕虜やアジア人ロームシャを動員した。イギリス、オーストラリア、オランダ人などの捕虜五万五千人(または六万二千人)が投入された。一万二千〜三千人の捕虜が犠牲になった。ビルマ、タイ、マレー半島、ジャワなどから二十万人以上と言われるロームシャを連れてきた。アジア人のロームシャの犠牲者は少なく見積もっても四万二千人(日本軍側の見積もり)、イギリスの史料では約七万四千人と推定されている。
≪「キーワード日本の戦争犯罪」(1995.6.20発行 雄山閣)から≫
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【特別挿入】第二次世界大戦後の戦争・内戦等の犠牲者数
第二次世界大戦後の戦争・内戦等の犠牲者数
朝鮮戦争
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の間で1950年6月に始まった紛争で、およそ300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し、また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末、戦争は1953年7月、決定打のないまま終結した。
…この戦争で、およそ 130万人の韓国人(その多くは民間人)が死亡し、中国人の死者は 100万人、北朝鮮人は50万人、アメリカ人は約 5万4000人が死亡したほか、連合軍側ではイギリス人、オーストラリア人、トルコ人の犠牲者も少数ながら出ている。数百万人の南北朝鮮国民が一時的に難民となり、韓国の工業施設の大半が被害を受け、北朝鮮はアメリカの空爆作戦により徹底的に破壊された。《「ブリタニカ国際大百科事典」から》
関連:『韓国戦争被害統計集』(1996.12.28 国防軍史研究所発行/大韓民国国防部軍史編纂研究所ウェブサイト:韓国語)
<http://www.imhc.mil.kr/user/imhc/upload/pblictn/PBLICTNEBOOK_201306250604460940.pdf>
<http://www.imhc.mil.kr/user/indexSub.action?codyMenuSeq=70405&siteId=imhc&menuUIType=sub>
ベトナム戦争(第2次ベトナム戦争…1964年8月のトンキン湾事件を契機としたアメリカ軍機による北ベトナム報復爆撃から、1975年4月30日の解放勢力サイゴン無血入場まで)
…戦争による人的損害は、死者がアメリカ 5万8000人(うち戦闘による死者 4万7000人)、南ベトナム18万5000人、北ベトナム90万人、負傷者がアメリカ30万3000人、南ベトナム50〜57万人、北の負傷者は不明。このほか南北ベトナムで 100万人以上の民間の死者が出、さらに無数の難民を生み出した。また爆撃や枯葉剤散布などによる国土の荒廃も著しい。《「ブリタニカ国際大百科事典」から》
ベトナム戦争の最終的な犠牲者の数 〈1987年アメリカの統計機関発表〉
南ベトナム軍 185,528名 南民間人 415,000名
北・解放戦線軍 924,000名 北民間人 33,000名
アメリカ軍 57,702名 韓国軍 4,407名
オーストラリア軍 475名 タイ軍 350名
フィリピン軍 27名 ニュージーランド軍 26名
中華民国派遣団 11名 中国人民解放軍 1,119名
(注)いずれも事故による死者を含む。ただし中国軍の数字のみそれを含んでいない。
《『わかりやすいベトナム戦争』(三野正洋著 1999.12.14 光人社発行) 245頁から》
ベトナム戦争に参戦した韓国軍の死傷者数 (1964.9-1973.3)
参戦者総数(陸,海,空軍の計) 325,517名 戦死者 4,601名 戦傷者 8,380名
《大韓民国国防部軍史編纂研究所ウェブサイト/情報資料室/ベトナム戦争/統計編5 から調製》
<http://www.imhc.mil.kr/user/indexSub.action?codyMenuSeq=70408&siteId=imhc&menuUIType=sub>
関連:ベトナム戦争死傷者の統計情報(米国国立公文書館ウェブサイト:英語)
<http://www.archives.gov/research/military/vietnam-war/casualty-statistics.html>
ビアフラ戦争
ナイジェリア連邦共和国の東部州の分離、独立をめぐる戦争。同州は1967年5月30日ビアフラ共和国として…独立を宣言。同年7月6日連邦政府軍は…進撃、内戦となった。…70年1月15日…終息した。この間、ビアフラ側の死者は餓死、戦死を含めて約200万人で、「人類史上まれにみる悲劇」として世界の関心を集めた。《「ブリタニカ国際大百科事典」から》
ポル・ポト政権
カンボジア人民党の…ポル・ポト書記長が率いた政権。1976年4月民主カンプチア政権を樹立。…恐怖政治で国民を弾圧したため約120万人の国民が死亡。…79年1月ヴェトナム軍の侵攻により政権は崩壊。《「角川世界史事典」から》
第2次世界大戦後の戦争の発生地域・件数・犠牲者 (1945-1989)
件数 死 者 数
中 南 米 23 668,000
ヨーロッパ 4 176,000
中 東 18 1,613,000
ア ジ ア 46 13,748,000
アフリカ 36 5,604,000
計 127 21,809,000
戦争における軍人と民間人の死者の比率
第一次大戦 92: 5
第二次大戦 52:48
朝鮮戦争 15:85
ベトナム戦争 5:95
〈松尾雅嗣『平和研究入門』広島平和文化センター 1990〉
《杉江栄一・樅木貞雄編著「国際関係資料集」(法律文化社 1997.11.20発行)99頁から》
関連:第二次世界大戦後の武力紛争(平成19年版 防衛白書 資料編/防衛省ホームページ)
<http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2007/2007/datindex.html>
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【戦争犯罪、虐殺事件】
虐殺事件の犠牲者数
「事件名」 (事件の年月日) ◆犠牲者 ★加害者 出典・参考資料等┐
「朝鮮東学党掃討作戦」(1894.8月〜1895.3月)◆党農民、 戦闘で6000人、処刑5600人、5万人の説あり★日韓両軍T
「旅順虐殺事件」(1894年11月21日〜25日) ◆2千〜2万人 ★日本陸軍T
「三・一運動武力鎮圧」(1919年3月1日〜) ◆集会参加民衆等52,000人殺傷、 46,900人余検挙 ★日本官憲U
「イワノフカ事件」(1919年3月22日)◆シベリア出兵、敵派の村を焼き討ち、村民数百名を焼殺・銃殺★日本軍・白軍X
「尼港事件」(1920年5月25日)◆シベリア出兵の捕虜であった日本軍将兵・居留民383名虐殺★ソビエトパルチザンU
「朝鮮人虐殺事件」(1923年)◆関東大震災後、在日朝鮮人6000余人、中国人200余人、日本人数十人★民衆(自警団)V
「霧社事件」(1930.10.28)◆日本人約140人殺害/先住民約千人の死者★先住民族蜂起/台湾総督府軍隊警察鎮圧 U
「平頂山事件」(1932年9月16日) ◆中国人住民400〜3000名を殺害、 集落を焼払い ★日本軍守備隊TV
「通州事件」(1937年7月27日) ◆日本軍守備隊・居留民117名、 朝鮮人居留民106名を殺害 ★冀東政権保安隊 V
「陽高事件」(1937年9月)◆内モンゴルの陽高で中国人350〜500名虐殺 ★関東軍チャハル兵団(兵団長東条英機)T
「香港戦における英軍捕虜処分」(1941年12月18日)◆香港戦における投降英軍兵士に対するいくつかの殺害事件T
「バリスト・スロン捕虜殺害事件」(1942年1月22日) ◆捕虜150名処刑 T
「アレクサンドラ病院事件」(1942年2月14日) ◆英軍軍医、 看護婦、 患者を200名殺害 ★日本軍 T
「シンガポール華人虐殺」(1942年2月18日)◆占領後華人を虐殺、 5000人(日本資料)、4〜5万人(現地)★日本軍 V
「バンカ島豪軍看護婦殺害事件」(1942年2月) ◆豪陸軍看護婦20名殺害 ★日本兵 T
「ラハ事件」(1942年2月) ◆蘭領東インド アンボン島、捕虜約200人を殺害、背後からの銃剣による刺殺 ★日本軍T
「バターン死の行進」(1942年4月)◆降伏米比軍7万人を徒歩行軍、米兵2330人を含む7千-1万人行進中死亡★日本軍U
「マキン島米捕虜の処刑」(1942年8月) ◆米海兵隊員9名を処刑 ★日本軍 T
「廠窖虐殺事件」(1943年5月9日〜12日) ◆3日間に中国の軍民3万人余りを殺害 ★日本軍(江南殲滅作戦)WX
「ポンチャナック事件」(1943年10月〜1944年1月) ◆住民4000〜2万人検挙粛清 T
「捕虜洋上処分」 T
(1943年3月16日) 駆逐艦秋風、移送中の外国人抑留者約60名全員を洋上で処刑
(1943年12月14日) 呂110潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
(1944年2月22日) 伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
(1944年3月26日) 伊8潜が蘭船を撃沈し、生存者98名を艦上で処刑。
(1944年3月29日) 伊26が米商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
(1944年3月) 重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。
(1944年7月2日) 伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。
「トラック病院の捕虜生体解剖事件」(1944年2〜7月) ◆米兵捕虜8名を生体切開等 T
「メリッソ村民虐殺事件」(1944年7月15日) ◆村民46人虐殺 T
「ティンブンケ事件」(1944年7月) ◆村民約100名集団殺害 T
「ババル島事件」(1944年10月〜11月) ◆住民704名虐殺 ★日本軍守備隊 T
「パラワン島米兵捕虜殺害事件」(1944年12月13日) ◆米軍捕虜150名を処刑 T
「父島人肉食事件」(1945年2月) ◆撃墜された米兵8名を捕らえ処刑の後食べた T
「マニラ市街戦での虐殺事件」(1945年2月) ◆多数の民間人が虐殺された
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。 北部墓地で2000名を処刑。 サンチャゴ監獄での集団殺害など。 T
「サンダカン死の行進」(1945年2月〜6月) ◆英豪捕虜2000人の大部分が飢えと病気のため死亡 T
「石垣島事件」(1945年4月15日) ◆米兵捕虜3名処刑 T
「ランソン事件」(1945年3月) ◆仏兵捕虜を処刑 T
「九州大医学部生体解剖事件」(1945年5月17日〜6月2日) ◆米兵捕虜8名を生体実験 T
「ヤルート島民処刑事件」(1945年5月) ◆島民21名を殺害 ★陸海軍将校 T
「花岡事件」(1945年6月30日) ◆中国人労務者100人が拷問後処刑 ★警察、 自警団、 鹿島組等T
「カラゴン事件」(1945年7月) ◆村民600名を集団殺害 ★日本軍 T
「オーシャン島住民殺害事件」(1945年8月19日) ◆島民140名を銃殺 T
「通化事件」(1946年2月3日)◆蜂起の鎮圧後に行われた虐殺事件、日本人3000人が虐殺された ★中国共産党軍等X
出典・参考資料等
T:「世界戦争犯罪事典」(秦郁彦監修 文藝春秋 2002年) <http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000003669407.html>
U:「ブリタニカ国際大百科事典」
V:「角川日本史辞典」
W: 中国通信及び新華社配信記事
X: ウィキペディアフリー百科事典等から
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【南京大虐殺】
南京大虐殺の犠牲者が埋葬された場所のひとつである上新河万人坑が南京市西部の揚子江右岸にある。その川縁に、犠牲者を追悼する上新河受難同胞記念碑が建立されていて、次のような碑文が刻まれている。
〔原文〕
一九三七年十二月,侵華日軍攻占南京後,我大批解除武装之士兵和群集上新河一帯之難民,共二萬八千七百三十余人,悉遭日軍殺害於此處。日軍屠殺手段極其残酷,或縛之以溺水,或積薪而活焚,槍撃、刀劈,無所不用其極,對婦女乃至女童,均先強奸而後殺害,惨絶人寰,世所罕見,致使屍積如山,血流成河。刼后,湖南木商盛世征,昌開運両先生目睹惨状,於心不忍,曾由私人捐款收埋一批遺屍,嗣於一九三八年一月至五月,又経南京紅卍字會在上新河一帯收埋死難者遺屍計十四批,共八千四百五十九具,分記如下
一月十日 葬於黒橋九百九十八具
二月八日 葬於太陽宮四百五十七具
二月九日 葬於二道埂八百五十具
二月九日 葬於江東橋一千八百五十具
二月九日 葬於棉花堤一千八百六十具
二月十四日 葬於軍人監獄附近近三百二十八具
二月十五日 葬於觀音庵空塲八十一具
二月十六日 葬於鳳凰街空塲二百四十四具
二月十八日 葬於北河口空塲三百八十具
二月廿一日 葬於五福村二百一十七具
三月十五日 葬於甘露寺空塲八十三具
三月廿三日 葬於甘露寺空塲三百五十四具
四月十六日 葬於賈家桑園空地七百具
五月二十日 葬於黒橋五十七具
前事不忘,後事之師,爰本此旨,特立此碑,藉慰死者,兼勉後人,愛我中華,強我祖国,反對侵略,維護和平
侵華日軍南京大虐殺上新河地区/受難同胞記念碑/南京市人民政府/一九八五年八月
〔邦訳〕
1937年12月、中国を侵略した日本軍が南京を占領したあと、我が大勢の武装解除された兵士と上新河一帯に逃げ込み集まっていた難民合わせて2万8730人余が、この地で日本軍によりことごとく殺害された。日本軍の虐殺手段は極めて残酷で、ある者は縛られて溺死させられ、ある者は薪を積み上げて生きたまま焼かれ、銃で撃たれ、刀剣で切り殺されるなど、用いられないものはなかった。女性は子どもに至るまですべてがまず強姦され、そのあと殺害された。その悲惨さは、この世に絶するおよそ例のないものであった。遺体は積まれて山となり、血は流れて河となった。
その後、湖南の木材商人の盛世征と昌開運の二名が、見るに忍びないこの惨状を目の当たりにし、自ら寄付金を出して大量の遺体を集め埋葬した。
その後を引き継ぎ、南京紅卍字会が、1938年1月から5月まで、14回にわたり合計8459体の遺体を上新河一帯に集め埋葬した。その内訳は次のとおりである。
1月10日 黒橋に埋葬 998体
2月 8日 太陽宮に埋葬 457体
2月 9日 二道埂に埋葬 850体
2月 9日 江東橋に埋葬 1850体
2月 9日 棉花堤に埋葬 1860体
2月14日 軍人監獄付近に埋葬 328体
2月15日 観音庵空地に埋葬 81体
2月16日 鳳凰街空地に埋葬 244体
2月18日 北河口空地に埋葬 380体
2月21日 五福村に埋葬 217体
3月15日 甘露寺空地に埋葬 83体
3月23日 甘露寺空地に埋葬 354体
4月16日 賈家桑園空地に埋葬 700体
5月20日 黒橋に埋葬 57体
過去を忘れず、将来の師とする、この趣旨に基づき、特別にこの碑が建てられた。死者を慰めるとともに、我が中華民族を愛し、我が祖国を強め、侵略に反対し、平和を守り続けられるよう、後世の人々を励ますために。
関連:YouTube から 戦線後方記録映画「南京」 1938年東宝文化映画部作品.avi
<https://www.youtube.com/watch?v=nos2prviBq8>
Watch Videos Online から「兵士たちの記録した南京大虐殺」Nanjing Atrocities soldiers recorded
<http://www.veoh.com/watch/v6608353j9h3gFDf>
侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館公式サイト
<http://www.19371213.com.cn/ja/about/>
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【ホロコースト】
ホロコースト
ナチスによるユダヤ人大量虐殺。…ドイツ・ユダヤ人に対するヒトラーの迫害は、1933年1月、彼の首相就任1カ月後に始まり、…。42年1月のワンゼー会議で「ユダヤ問題の最終的解決」につき、ヨーロッパの占領地全体からユダヤ人を東部の収容所に組織的に移送し、「しかるべき扱い」に処するという決定がなされた。…ガス室やその他の方法により、おそらく400万人ものユダヤ人がアウシュビッツ収容所など各地の絶滅収容所で命を落した。戦争中、ナチスに処刑されたユダヤ人の総数はおよそ570万人と推計されている。ユダヤ人に加えて、40万人ものジプシーもホロコーストで殺された。 《「ブリタニカ国際大百科事典」から》
関連:ヴァンゼー会議議事録(1942.1.20,ベルリン)(ヴァンゼー会議記念館ウェブサイト<https://www.ghwk.de/de>)
…旧西ドイツでは、1956年に成立した連邦補償法のもとで、2030年までに個々の被害者に対して合計 200億マルク(7兆7000億円)の国家補償を行うことにして(いる)。《「マイペディア百科事典」(日立システムアンドサービス)から》
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【特別挿入】ホロドモール
「ウクライナのホロドモール(飢餓)1932-1933年―ウクライナ人大量虐殺」
"Голодомор 1932–1933 років в Україні – геноцид українського народу"
ウクライナのホロドモール1932-1933年、これは最悪の国家的悲劇であり人類の歴史の中で最大の人道災害の一つです。長い期間、飢饉の真実の開示は禁止されていました。ソ連当局は記録と証拠を破壊し、人類の記憶から根絶しようとしました。
独立したウクライナは、歴史的正義の回復のための条件を作成しました。ウクライナは、ホロドモール1932-1933を、ウクライナ人大量虐殺と認識し、ホロドモール犠牲者追悼の日を設けました。
ウクライナにおけるホロドモール1932-1933は、ウクライナの人々に対する犯罪です。ウクライナの何百万人の死の責任は、ソ連、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国及び共産党(ボリシェヴィキ)の指導者にあります。
Голодомор 1932–1933 років в Україні – одна з найжахливіших національних трагедій та наймасштабніших гуманітарних катастроф в історії людства. Правда про Голодомор тривалий час була під забороною розголошення. Радянська влада намагалася знищити документальні свідчення заподіяного й витравити з людської пам’яті згадки про нього.
Здобуття Україною незалежності створило умови для поновлення історичної справедливості. В Україні Голодомор 1932–1933 років визнано геноцидом українського народу та встановлено День пам’яті жертв голодоморів.
Голодомор 1932–1933 рр. в Україні – злочин, скоєний проти українського народу. Вина за загибель мільйонів українців лежить на керівництві Радянського Союзу, Української Соціалістичної Радянської Республіки та Всесоюзної комуністичної партії (більшовиків).
ウクライナが負った人類最大の人的損失、ホロドモール1932-1933において、平時にありながら、主にウクライナの農民、何百万人もの人々が死亡しました。この世界に前例のない飢餓は、ウクライナ共和国のすべての住民のほぼ三分の一の命を奪いました。主にウクライナ人が死亡しています(農村部では、その80から90パーセントに達しました)。
Найчисельніших людських втрат Україна зазнала під час Голодомору 1932-1933 рр. У мирний час від голодної смерті тоді загинули мільйони людей – переважно українські селяни. Цей небачений в світі голодомор забрав життя майже третини всіх жителів УРСР. Померли переважно українці (в сільських місцевостях їх частка дорівнювала 80-90 %).
《ウクライナ国立ホロドモール犠牲者追悼博物館公式サイト掲載文(ウクライナ語)から翻訳》 <http://memorialholodomor.org.ua/home>
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【特別挿入】中国六十年代大飢餓
中国新華社通信記者の 杨继绳 氏によって、中国大躍進政策とその時期に起こった飢饉の研究が、『墓碑』と題する本にまとめられました。その中の一節に次のように記されています。
〔原文〕
发生在我家里的悲剧同时发生在全国上千万个家庭中。
读者将会在本书的第22章中看到,我参照中外多方面的资料,确认从1958年到1962年期间,中国饿死3600万人。因饥饿使得出生率降低,少出生人数为4000万人。饿死人数加上因饥饿而少出生人的数,共计7600万人。
在信阳,在通渭,在凤阳,在亳州,在罗定,在无为,在馆陶,在济宁,在四川省的不少地方,几乎家家都有人饿死,很多家庭人口全部死绝,有的村庄死得绝无人迹。正是应了毛泽东的两句诗:“千村癖藜人遗矢,万户萧疏鬼唱歌。”
〔邦訳〕
我が家に起きた悲劇は、同時に全国数千万の世帯でも起こりました。
読者は本書の第22章で知ることになります。私が調べ上げた内外多方面の資料によると、1958年から1962年までの間に、中国で3600万の人が餓死し、飢餓のために出生率は低下し、出生人数は約4000万人少なくなりました。よって餓死者に減った出生者を加えた人の数は計7600万人となります。
信陽で、通渭で、鳳陽で、亳州で、羅定で、无爲で、舘陶で、済寧で、四川省のおよそ少なくない地域で、ほとんどの家に餓死者が出、多くの世帯ですべて死に絶え、ある村は死に絶えて無人となりました。正に毛沢東が詠んだ次の詩の如しでした:“千村穀なく人矢を遺し、万戸の幽霊歌を歌う。”
《黄健氏のホームページから / 墓碑——中国六十年代大饥荒纪实 杨继绳著 2007年8月 》
<http://www.hnjhj.com/alan/>
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【アジア太平洋戦争と日本人】
アジア太平洋戦争と日本人
ネットから、アジア太平洋戦争の戦争犠牲者数に関する記事を掲載しているホームペー
ジを探しました。参考になったもの、考えさせられたものを、いくつか引用しました。
日本人の戦争犠牲者数
延べ1000万人の兵士が戦争に参加し、失われた兵士数は約200万、非戦闘員まで含めると約300万の人命が失われた。焼失住宅戸数は310万戸、戦費2200億円と云われている。
太平洋戦争における日本側の死者の数字
・陸軍戦死者数:約144万人
・海軍戦死者数:約 42万人
・軍属 :約 9万5千人
・一般国民 :約 69万人
・合計 :約250万人
本土爆撃の実態
建設省が57年刊行した「戦災復興史」によると、全国の被災地は215都市 計約645平方キロメートル、犠牲者は47年1月結成の全国戦災都市連盟が113都市を調べた分だけで51万人、被災人口は964万人に達していた。
当初は、飛行機製作所、軍需工場が専ら狙われたが、45.3.10の東京大空襲以降は、中低空で大量の焼夷弾を投下し市街地を焼き尽くす無差別爆撃が始まった。東京は45.3.10の東京大空襲で約27万戸を焼き、約8万4千人が死亡した。
<1,000人以上の死者を出した都市一覧表>(全国戦災都市連盟調査)
都市 死者数 都市 死者数 都市 死者数 都市 死者数
広 島 260,000 東 京 94,225 長 崎 74,604 大 阪 10,388
名古屋 7,802 神 戸 6,235 横 浜 4,616 浜 松 3,239
鹿児島 2,427 富 山 2,275 呉 2,062 堺 1,876
青 森 1,767 岡 山 1,737 静 岡 1,603 福 井 1,600
津 1,600 明 石 1,464 高 松 1,316 大牟田 1,291
日 立 1,266 千 葉 1,173 長 岡 1,167 八 幡 1,130
和歌山 1,101 佐世保 1,030《れんだいこさんのホームページ「左往来人生学院」から》
<http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_2.htm>
日本軍戦死者について
一橋大学名誉教授藤原彰氏の調査によると、アジア太平洋戦争における戦死230万人の内、その約六割、約140万人が「餓死」だったということです。
その出典である『餓死(うえじに)した英霊たち』(藤原彰著 青木書店 2001/5/24発行) を紹介した週刊「かけはし」の記事(平井純一氏執筆)を引用します。
ここでいう「餓死」とは、栄養失調による「不完全飢餓」によって病気に対する抵抗力を失った結果としての戦病死をもふくむ広義の規定である。
アジア太平洋戦争における「餓死」の実態について、著者は ガダルカナル島、ニューギニア、インパール作戦、「孤島」の置き去り部隊、フィリピン戦、中国戦線について、公刊戦史や厚生省援護局などの資料に基づき、日本軍戦死者のうちの「餓死」の比率を推定している。
「ガダルカナル島の場合、方面軍司令官は死者2万、戦死5千、餓死1万5千と述べている。ブーゲンビル島では、タロキナ戦以後の死者約2万はほとんど餓死であったと推察される。…ソロモン諸島の死没者の四分の三にあたる 6万6千名が餓死したと考えられる」。
「厚生省の調査では、東ニューギニアの戦没者は12万7千6百となっている。各部隊の報告や回想では、いずれも死者の九割以上が餓死だったとしている。仮に九割として計算すると、実に11万4840名が餓死したことになる」。
インパール作戦をふくむビルマ方面軍でも死者の78%、14万5千人かそれ以上が餓死者であったと推定される。中部太平洋では、マキン、タラワ、クェゼリン、サイパン、グアム、テニアン、ベリリューなどの諸島では日本軍は上陸した米軍と戦って「玉砕」したが、米軍にとって不必要なために無視され、戦線の背後に取り残されたため、補給も途絶え、餓死の運命が待ち受けていた島も多い。著者は中部太平洋の諸島全体を見たとき、戦死者と餓死者の割合は半々と見ている。つまりここでは12万以上が病死・餓死していたと見られる。
アジア太平洋戦争の戦場別で、日本軍が最も多くの死者を出したのは50万人に上ったフィリピン戦線であった。ここでは八割の40万人が餓死と推定される。1937年の日中戦争開始以来、中国戦線での死者はフィリピンに次いで多く45万5千7百である。その中で、栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気などによる病死者は死因の三〜四割を占める。とりわけ最も多くの犠牲者を出した1944年の大陸打通作戦では過半数が病死とされる。著者はこれらの例から、中国戦線での全死者の約半数が栄養失調にもとづく病死であり、その数はしたがって22万以上としている。
こうした地域別調査を集計した結果、著者は「戦地栄養失調症による広い意味での餓死者は、合計で 1,276,240名に達し、全体の戦没者2,121,000名の60%強という割合になる。これを77年以後の戦没軍人軍属230万という総数に対して換算すると、そのうちの 140万前後が戦病死者、すなわちそのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけている。《かけはし 2001.9.10(第1697号) 読書案内『餓死した英霊たち』
<http://www.jrcl.net/framek897.html>から》
日本軍戦死者について
太平洋地域における日米戦争で戦死者数が多かった地域は、フィリピン498,600人、中部太平洋(小笠原諸島を含む)262,400人、南西太平洋(ソロモン、ビスマルク諸島、東ニューギニア)246,300人などである。重要なことは、この戦死者の大部分が「絶望的抗戦期」(44年以降敗戦まで)に集中しているということである。吉田裕はその数値は「全体の87.6%に達している」(『アジア・太平洋戦争』岩波新書)と述べている。《長谷川了一氏のネット掲載著書
<http://www.toyamav.net/~fc9/sPDF/76-6_7.pdf>から》
海没死
海没死は艦船の沈没による死である。アジア・太平洋戦争中に、連合軍の攻撃によって、軍艦651隻、陸海軍の徴用船を含む商船2934隻が沈没し、海軍軍人・軍属18万2000人、陸軍軍人・軍属が17万6000人、商船船員・民間人など4万5000人乃至7万1400人、合わせて39万8500人乃至42万9400人が戦没した。《引地博信氏のホームページ
<http://japanese.hix05.com/History/showa/showa025.death.html>から》
旧植民地出身の日本軍人・軍属の動員と死亡者
(1990年厚生省発表分)
徴兵・徴用 復 員 死亡者数 死亡率
朝鮮軍人 116,294人 110,116人 6,178人 5.3%
軍属 126,047人 110,043人 16,004人 12.7%
計 242,341人 220,159人 22,182人 9.2%
台湾軍人 80,433人 78,287人 2,146人 2.7%
軍属 126,750人 98,590人 28,160人 22.2%
計 207,183人 176,877人 30,306人 14.6%
合 計 449,524人 397,036人 52,488人 11.7%
*1971年韓国へ返還した名簿では朝鮮半島出身戦死者 2万1919人
*1993年の返還名簿では、朝鮮人復員数は22万1810人となっている。
*「大東亜戦争」日本の戦死者
軍人・軍属約210万人 準軍属約20万人、一般日本人80万人(戦災50、外地30)
=計約310万人(外地240万人)
*連合国側によるBC級戦犯裁判
台湾出身 有罪173人─死刑26人、朝鮮出身 有罪148人─死刑23人
連合国側各国の個別裁判。日本のBC級戦犯約900人以上が処刑されたといわれる。
(米・英・豪・国民政府のBC級戦犯法廷で5690人が裁かれ、
死刑971人、終身刑479人)
《原田信一氏(日本の戦後責任をハッキリさせる会)のホームページから》
<http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/nikkan-shori.html>
在日朝鮮人
日本帝国の敗戦時、日本には当時の朝鮮人口の1割ほどの236万5千人の朝鮮人がいた。日本による植民地支配の下で、これほど大量の朝鮮人が祖国で生活ができなくなって海を渡ったのである。敗戦の翌年までに、このうちの4分の3の人たちが自力で帰国した。しかし、帰国の願いをもちながらも、朝鮮半島の分断と混乱で祖国での生活の目途が立たなかったりしたため、約65万人が日本に残った。これらの人々とその子孫が、現在の在日朝鮮人である。《長谷川了一氏のネット掲載著書
<http://www.toyamav.net/~fc9/sPDF/79-8~9.pdf>から》
日中戦争における中国人の戦争犠牲者数
1946年8月、東京裁判で、中華民国の軍政部長 何応欽 が提出した戦死者数は、130万人。(死亡が確認された軍人だけの数…131万9千人)。
1978年、中華民国(台湾)政府発表、軍人の死亡132万人、行方不明13万人、民間の死者578万人。(軍民の死者 723万人)。
1989年、中華人民共和国政府発表、死亡932万。(これに行方不明289万人、負傷者947万人を合わせて、死傷者2168万人というのが、江沢民発言前の中国政府公式発表)
1995年、江沢民主席がモスクワで、軍民の死傷者の数は、3500万人と述べた。《掲示板への書き込みから》
海外のサイト
World War II casualties - Wikipedia, the free encyclopedia 第二次世界大戦の死傷者
<http://en.wikipedia.org/wiki/World_War_II_casualties>
関連:NHK戦争証言アーカイブズ(NHKホームページ)<http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/>
国立公文書館 アジア歴史資料センター アジ歴トピックス 太平洋戦争
<http://www.jacar.go.jp/topicsfromjacar/01_warissues/index01_001.html>
近代日本軍事関係文献目録/国立国会図書館リサーチ・ナビ
<https://rnavi.ndl.go.jp/gunji/index.php>
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【各地の戦闘、玉砕】
真珠湾奇襲攻撃の人的損害
アメリカ陸・海軍合わせて
戦死・行方不明・戦傷後死亡 2,402名
戦傷者 2,382名、
合計 4,784名(103名の民間人を含む)
日本側損失…飛行機29機、搭乗員54名、及び特殊潜航艇5隻、9名《「図説 太平洋戦争」(2005増補改訂版 池田清編 河出書房新社)27頁から》
真珠湾奇襲(1941.12.7(米国日付))の犠牲者
アメリカ海軍及び陸軍の将兵 3,300名
住民 68名《「記録写真 太平洋戦争 上」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)16頁から》
ガダルカナル島争奪戦(1942.8.2〜1943.2.7)
(太平洋戦争で、日本に対してアメリカが初めて勝利をとげた離島作戦)
投入 戦死者
アメリカ軍 約七万名 約二千名
日本軍 約三万六千名 約二万四千名 (1万2千人の日本軍の生存者が撤退)《「記録写真 太平洋戦争 上」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)62頁等から》
アッツ島守備隊の玉砕
アッツ島守備隊(山崎保代大佐以下2638名)
昭和17年6月 アッツ島に上陸、行軍32Km、10時間ほどでチチャコブ(熱田湾)に到達、全
島を制圧した。飛行場建設が任務であったが、米軍による爆撃や輸送船攻
撃等により、輸送や補給が断たれ、守備隊は孤立状態に陥っていった。
昭和18年 5月12日、米軍、アッツ島に上陸(1万人あまり)。
守備隊は、電報で、援軍(1500人程)、物資補給等を求めたが、結局、大本
営は見捨てた。
5月23日、守備隊あてに、事実上の玉砕命令が発せられた。
「…最後に至らば潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮することを望む」
と。それ以後、負傷兵には自決(できなければ射殺)、ほかには突撃が命じ
られた。
5月29日深夜、生き残っていた百人あまりが、最後の突撃を敢行した。
5月30日、大本営は、NHKラジオで、「守備隊自ら玉砕した」と発表した。
アッツ島守備隊の2638名は、軍神として奉られた。これをきっかけに、全
滅を玉砕と美化し、玉砕の頻発を招き、一般国民にも死を求めていくよう
になっていった。
戦後、捕虜となっていた27名が帰還した。
《NHKテレビ番組 NHKスペシャル『玉砕 隠された真実』(2010.8.12放送)から》
<http://www.nhk.or.jp/special/detail/2010/0812/>
サイパン島で亡くなられた人々
サイパン島には、昭和19年6月当時、日本軍は、陸軍28,518名、海軍15,164名、総計43,682名(いずれも推定)の将兵がいた。このほか、本土引き揚げに間に合わなかった二万名前後の一般邦人と約四千名の現地住民もいた。ここに、6月15日より、米軍が上陸し、その将兵は六万二千名を数えた。《「図説 太平洋戦争」(2005増補改訂版 池田清編 河出書房新社)86頁から》
ドイツ領であったサイパン島は, 第一次世界大戦後, 国際連盟により日本の委任統治領となり, 多くの日本人が移住し, 砂糖産業や農業, 漁業に携わっていました。
昭和19年6月15日, 米軍がサイパン島へ上陸してきた時には日本軍は既に制海権, 制空権を失っており, 大勢の在留邦人は引き揚げられない状態になっていました。このような状況下で戦闘が行われたため, 7月7日に日本軍が玉砕するまでに, 陸海軍の約4万3千人と在留邦人の1万2千人の命が失われました。軍人を始め, 当時島に在住していた人々の苦しみや島で家族を亡くした人々の悲しみはいかばかりであったかと計り知れないものがあります。この戦闘では米軍にも3, 500人近い戦死者があり, また900人を超えるサイパン島民が戦闘の犠牲になりました。またこの戦闘では朝鮮半島出身の人々も命を落としています。 《平成17年12月19日、天皇陛下の記者会見(宮内庁ホームページ)から》
<http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h17e.html>
関連:<http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/speech/speech-h17e-saipan.html>
テニアン島
テニアン島には、南洋興発株式会社(社長松江春次)の募集に応じた移民として、太平洋戦争開戦当時約13,000人の日本人居留民がおり、当時の日本のサトウキビ生産の重要な拠点になっていた。併せて日本軍の基地が置かれており、開戦後兵員は増強され、米軍上陸時には、陸軍4,000、海軍4,000、計8,000人となっていた。そこに居留民から組織された義勇隊3,500人(居留民の各世帯から男性1人が徴用され、弾運び等に従事させられた)が加わり、米軍上陸を迎えた。昭和19年7月24日、4万人の米軍が上陸した。この戦闘により、日本軍は玉砕し、居留民は3,500人以上が命を落とした。
《NHKテレビ番組「シリーズ証言記録 市民たちの戦争 楽園の島は地獄になった 〜テニアン島〜」(2009.8.11放送)から》 <http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001220028_00000>
硫黄島戦 昭和20年2月19日〜3月26日
硫黄島戦における日米両軍の兵力
日 本 側 米 軍 側
兵 力 20,933人(9個大隊) 61,000人(27個大隊)
硫黄島戦における日米両軍の損害
日 本 側 米 軍 側
陸 軍 海 軍 合 計 海兵隊 陸海軍 合 計
戦死者 12,850人 7,050人 19,900人 5,931人 890人 6,821人
戦傷者 736人 297人 1,033人 19,920人 1,945人 21,865人
総合計 20,933人 28,686人
〈戦史叢書「中部太平洋陸軍作戦(2)」〉
《「鎮魂の摺鉢山-硫黄島」(松本昌治著 H18.10.20 関東図書株ュ行)43頁から》
玉砕に至った守備隊
昭和17年 パサブア(ブナ地区)守備隊(12/8)
昭和18年 ブナ守備隊(1/2) アッツ島守備隊(5/29) マキン守備隊(11/23)
タラワ守備隊(11/25)
昭和19年 ルオット守備隊(2/2) ナムル守備隊(2/3) クェゼリン守備隊(2/5)
エニウェトク守備隊(2/22) エンチャビ守備隊(2/23)
ロスネグロス守備隊(5/6) ワクデ島守備隊(5/26)
ビアク島守備隊(7/2) サイパン守備隊(7/7) テニアン守備隊(8/2)
グアム守備隊(8/11) 拉孟守備隊(9/7) 騰越守備隊(9/13)
アンガウル守備隊(10/19) ペリリュー守備隊(11/23)
昭和20年 硫黄島守備隊(3/25) ラブアン守備隊(6/20頃)
《「国際NPO 日本國戦死者遺体収容団」ホームページ「玉砕の戦場年表」を参考に作成しました。》
<http://ikotu.org/old/gyokusai_0.html> <http://ikotu.org/old/>
関連:「大東亜戦争『玉砕』一覧表」<http://depot3.blog75.fc2.com/blog-entry-69.html>
マニラ市街戦 (1945年2月3日〜3月3日)
死者 日本軍 16, 555人
米軍 1, 010人
フィリピン人 100, 000人 〈米軍公刊戦史より〉
《NHKテレビ番組「証言記録 マニラ市街戦 ―死者12万 焦土への一ヶ月―」(2007.8.16放送)から》
<http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210015_00000>
沖縄での犠牲者
沖縄は1941年から始まった太平洋戦争の激戦地となり、国内で唯一悲惨な地上戦が行わ
れた場所です。犠牲者数はアメリカ軍約1万2500人、沖縄出身者を含む日本軍約9万4000人、
沖縄の住民約9万4000人とされていますが、正確な住民の犠牲者数はわかっていません。
(沖縄修学旅行情報専門サイトから)
沖縄戦戦没者数
日本側 188,136名
├ 本土出身軍人 65,908名
└ 沖縄出身 122,228名
├ 軍人軍属 28,228名
├ 戦闘参加住民 57,004名
└ 一般住民(推定) 36,956名
米軍側 12,520名
総 計 200,656名
(『沖縄県の生活福祉』沖縄県生活福祉部援護課発行・平成元年版)
《ひめゆり平和祈念資料館リーフレット<http://www.himeyuri.or.jp/JP/etc/digest_book.pdf>》
沖縄戦の戦没者と沖縄県民の犠牲
日本軍将兵 94,136人
├ 他府県出身者 65,908人
└ 沖縄出身者 28,228人(防衛隊員を含む)
沖縄県民で戦闘協力者 55,246人
民間の沖縄県民 94,754人
総 数 244,136人
(琉球政府援護課 1953年)
「平和の礎」刻銘者数出身地別一覧
日本 沖縄県 148,384
県外 75,516
外国 米国(USA) 14,007
英国(UK) 82
台湾 28
朝鮮民主主義人民共和国 82
大韓民国 309
合 計 238,408
(2002年6月23日現在)
《上2点「図説 沖縄の戦い」(2003 森山康平編 河出書房新社)133頁・138頁から》
沖縄島作戦におけるアメリカ人将兵の人的損害
投 入 死傷者 戦 死
アメリカ陸軍及び海兵部隊 183,000名 39,420名 7,520名
アメリカ艦船上の海軍 9,731名 4,907名
(その大半は神風特攻隊の体当り命中によるもの)
《「記録写真 太平洋戦争 下」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)122-160頁から》
死者数
…太平洋戦争下の戦闘について…、たくさんのところで日本の兵隊さんたちが亡くなってい
ます。主な戦場でのそれを、一挙に読み上げます。
ガダルカナル島で戦死八二〇〇人、餓死または病死一万一〇〇〇人、
アッツ島で戦死二五四七人、捕虜二九人、ということはほぼ全滅です。
ニューギニアで病死も含む戦死一五万七〇〇〇人、
タラワ島で戦死四六九〇人、ここも玉砕で捕虜一四六人、
マキン島も玉砕で戦死六九〇人、捕虜九〇人、
ケゼリン島も玉砕で戦死三四七二人、捕虜二五〇人、
グアム島で戦死一万八四〇〇人、捕虜一二五〇人、
サイパン島で戦死約三万人、市民の死亡一万人、捕虜九〇〇人。
島だけでなく、陸上でもたくさんの人が死んでいます。
インパール作戦で戦死三万五〇〇人、傷ついた人あるいは病気で倒れた人四万二〇〇〇人、インパール作戦の一つとしてビルマの東、中国本土で戦われた拉孟騰越(ラモウトウエツ) も玉砕で戦死二万九〇〇〇人、生存者一人――無事脱出したこの人がこの戦いのことを語りました――、
ペリリュー島も玉砕で戦死一万六五〇人、捕虜一五〇人、
フィリピン――レイテ島やミンダナオ島、ルソン島のマニラ周辺など多くの場所で戦闘が行なわれ、その全域での戦死四七万六八〇〇人、生存一三万三〇〇〇人――終戦まで戦いましたので、最後に生き残っていた人という意味です。
硫黄島も玉砕し、戦死一万九九〇〇人、捕虜二一〇人、
沖縄では戦死一〇万九六〇〇人――これは中学生や女学生など義勇兵も含めます――市民の死亡一〇万人、捕虜七八〇〇人。
さらに日本本土空襲による死者は、日本全国で二九万九四八五人、二三六万戸の家が灰や瓦礫となりました(昭和二十四年経済安定本部発表の公式調査による)。
また八年間にわたる日中戦争の死者は、満州事変と上海事変も入れて、総計四一万一六一〇人ということです(臼井勝美『日中戦争』による)。ただし、これには「日ソ一週間戦争」の戦死約八万人も含まれているようです。…《『昭和史 1926-1945』(半藤一利著 2004.2.10 平凡社発行) 497頁から》
関連:海外での戦没者の死亡状況について、帰還した元上官らから聴き取りした資料 (厚生労働省HP)
<http://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/shiryou/>
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【諸統計】
第二次世界大戦における日米両国の諸統計
日米両軍の兵力人員
国 別 ア メ リ カ 合 衆 国 ※ 日 本
時 期 1941年12月 1945年7月 1941年12月 1945年8月
陸 軍 1,332,000 5,924,000 2,100,000 5,710,000
空 軍 354,000 2,262,000 (陸軍、海軍各航空部隊に含まる)
海 軍 380,000 3,410,000 291,359 1,663,223
海 兵 隊 75,000 477,000 (海軍陸戦隊に含まる)
沿岸監視隊 28,000 171,000 (陸海軍に含まる)
合 計 2,169,000 12,244,000 2,391,359 7,373,223
※印は欧亜全戦線の総兵力を示す。
日米両軍の死傷者
国 別 ア メ リ カ 合 衆 国 ※ 日 本
戦 死 戦 傷 合 計 戦 死 戦 傷 合 計
陸 軍 41,686 109,425 151,111 1,289,605 53,028 1,342,633
└(陸軍航空部隊を含む)
海 軍 31,485 31,701 63,186 298,209 7,844 306,053
└(沿岸監視隊を含む)
海 兵 隊 19,733 67,207 86,940
総 計 92,904 208,333 301,237 1,587,814 60,872 1,648,686
《「記録写真 太平洋戦争 下」(1956 ロバート・シャーロッド、中野五郎編 光文社)217頁から》
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従軍看護婦
昭和12年から終戦まで、全国から招集された日赤の看護婦たちが、中国や東南アジアの戦地に送られ、日本軍の救護にあたった。「従軍看護婦」という兵士ではない女性たち延べ35,785人が日中戦争・太平洋戦争の最前線に送り出され、 1,137人の死者を生んでいたことは、ほとんど知られていない。彼女たちは野戦病院や病院船で傷病兵の救護にあたった。
派遣救護員 殉職看護婦
日 清 戦 争 明治27〜28年 1,396人 4人
日 露 戦 争 明治37〜38年 5,170 39
第一次世界大戦 大正 3〜 4年 291 0
満州/上海事変 昭和 6〜 7年 685 0
第二次世界大戦 昭和12〜20年 35,785 1,120
(日華事変含む) 日本赤十字社調べ
《BS-TBS製作 天使たちの真実〜元従軍看護婦の証言〜 証言“太平洋戦争” ヒストリーチャンネル H25.8.4放送から》
<http://www.bs-tbs.co.jp/genre/detail/?mid=KDT0900500>
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【特攻隊】
特攻隊員の戦死者数
海軍
海軍航空特別攻撃隊 2, 531人
比島方面作戦(フィリピン特攻) 419
サイパン・硫黄島方面作戦(フィリピン特攻の直後) 56
敵機動部隊との対戦(沖縄特攻の直前) 399
天1号航空決戦(沖縄特攻/人間爆弾・桜花を含む) 1, 590
本土来襲機動部隊攻撃(沖縄特攻の直後〜終戦) 67
特殊潜航艇(含む海竜) 440人
回天特別攻撃隊(人間魚雷) 104人
震洋特別攻撃隊(爆弾装備のベニヤ製モーター・ボート) 1, 081人
合 計 4, 156人
陸軍
陸軍航空特別攻撃隊 1, 417人
比島方面(フィリピン特攻) 276
沖縄方面(沖縄特攻/台湾から出撃の245人、義烈空挺隊特攻88人を含む) 1, 020
南西方面(スマトラ島沖合の戦艦や同島上空の敵機への体当たり) 66
内地および満州(B29への体当たりで、 うち本土上空が49人) 55
丹羽戦車特別隊(フィリピン・ルソン島バギオ西方イリサン) 9人
陸軍海上挺進隊(爆弾装備のベニヤ製モーター・ボート マルレ) 263人
合 計 1, 689人
…陸海軍の合計 5, 845人
特攻隊慰霊顕彰会が編纂した「特別攻撃隊」(平成2年・非売品)に、特攻戦死者の全氏名が掲載されている。 そこから数えた人数。《『図説 沖縄の戦い』(2003 森山康平著 河出書房新社)142頁から》
回天搭乗員・戦没者
搭乗員はすべて志願によった。一般兵科からも募ったが中途で打切られ、殆どが兵学校・機関学校・予備学生・生徒・甲乙飛行予科練習生であった。年齢も十七歳から高齢者で二十八歳、大多数は二十歳前後の若者であった。概要は表の通りで、戦没者数には終戦直後自決した士官二名が含まれている。なお、回天作戦に参加し未帰還の潜水艦八隻、その乗組員は八一〇名である。
出 身 搭乗員 戦没者
海軍兵学校 89 19
海軍機関学校 32 12
学徒出身 210 26
一般兵科 9 9
甲種飛行予科練習生 935 40
乙種飛行予科練習生 100 0
計 1375 106
(全国回天会のパンフレットより)
《山岡荘八著 秘録小説 人間魚雷『回天』(発行者 大隈要之助 善本社 2004) 88頁から》
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【一般空襲被害】
大東亜戦争開始以来一般空襲被害の概況
(内務省)
一、死傷者及建築物の被害
死傷者及建築物の被害は別表の通にして目下調査中に属する府県あるも現在迄に判明せる資
料によれば之が被害の総計は
死 者 二四一、三〇九名
負 傷 者 三一三、〇四一名
家屋の全焼全壊 二、三三三、三八八戸
家屋の半焼半壊 一一〇、九二八戸
罹 災 者 八、〇四五、〇九四名
罹災者は無傷者の意にして之に負傷者三一三、〇四一名を合するときは罹災者総計実に
八、三五八、一三五名に達す
二、空襲被害比較的大ならざる府県
京都、奈良、滋賀、長野、山形、秋田、石川、鳥取、島根の九府県なり
三、市制施行地にして比較的大なる被害を受けたる都市
全国(沖縄、樺太を除く)市制施行地二〇六都市中比較的大なる被害を受けたるは左の八十一
都市にして其の焼失、全壊戸数は全国市制施行都市家屋の約三割強に及ぶ
東京都三十五区、八王子市、立川市、大阪市、堺市、布施市、岸和田市、吹田市、豊中市、
横浜市、川崎市、小田原市、平塚市、神戸市、尼ヶ崎市、明石市、西宮市、芦屋市、長崎市、
佐世保市、大村市、長岡市、熊谷市、前橋市、高崎市、伊勢崎市、千葉市、銚子市、水戸市、
日立市、宇都宮市、津市、宇治山田市、名古屋市、一宮市、岡崎市、豊橋市、静岡市、浜松
市、清水市、沼津市、甲府市、岐阜市、大垣市、仙台市、塩釜市、平市、郡山市、釜石市、
宮古市、青森市、八戸市、福井市、敦賀市、富山市、岡山市、広島市、呉市、福山市、下関
市、岩国市、宇部市、徳山市、和歌山市、徳島市、高松市、松山市、宇和島市、高岡市、福
岡市、門司市、小倉市、大牟田市、八幡市、久留米市、大分市、佐賀市、熊本市、川内市、
延岡市、鹿児島市
四、被害を受けたる府県庁舎
東京、兵庫、長崎、青森、福井、岡山、広島、徳島、香川、高知、大分、熊本、鹿児島の各
府県
五、新型爆弾に依る被害状況
1、広島市
死 者 約 七万名
負 傷 者 約十三万名
家屋全焼全壊 約六万二千戸
家屋半焼半壊 約 一万戸
羅 災 者 約十万名(死傷者を含まず)
2、長崎市
死 者 約二万名
負 傷 者 約五万名
家屋の全焼全壊 約二万戸
家屋の半焼半壊 約二万五千戸
罹 災 者 約十万名(死傷者を含まず)
大東亜戦争開始以来八月十五日迄の空襲被害調
道都府県名 死 者 傷 者 全焼壊 半焼壊 罹災者 備考
北海道 796 553 2,030 750 13,950 ◎
東 京 88,250 62,106 851,166 8,217 2,578,150
京 都 227 576 203 260 1,390
大 阪 13,192 26,814 328,702 12,310 1,023,036
神奈川 6,242 15,028 144,926 1,762 440,064
兵 庫 10,404 20,325 160,354 10,575 512,875 ◎
長 崎 21,501 51,580 33,360 25,200 204,960 ◎
新 潟 869 2,109 11,336 188 45,696
埼 玉 528 1,068 5,598 346 23,776
群 馬 974 1,445 14,626 668 61,176
千 葉 1,478 1,855 21,103 786 87,556
茨 城 1,901 2,508 23,364 2,131 101,990 ◎
栃 木 670 1,361 11,357 248 46,420
奈 良 73 242 100 40 560
三 重 2,040 3,783 26,236 2,084 113,280 ◎
愛 知 11,243 14,451 168,180 15,154 550,000
静 岡 5,707 11,946 74,618 8,292 290,200
山 梨 929 1,401 18,518 202 75,000
滋 賀 59 237 52 33 400
岐 阜 787 662 23,906 1,581 89,130 ◎
長 野 37 54 62 28 350
宮 城 1,175 1,959 672 111 35,300
福 島 500 561 1,509 418 8,700
岩 手 620 655 4,337 134 20,120 ◎
青 森 828 1,050 15,103 350 77,265 ◎
山 形 18 33 5 ─ 30
秋 田 123 126 94 87 830
福 井 917 1,879 27,350 480 139,150 ◎
石 川 3 71 ─ ─ ─
富 山 2,258 3,864 22,796 379 92,700
鳥 取 80 92 31 23 250
島 根 8 21 12 46 300 ◎
岡 山 1,744 945 25,781 538 131,600 ◎
広 島 49,921 58,839 95,537 6,952 359,000
山 口 3,799 3,665 19,449 1,821 74,500
和歌山 1,992 5,609 29,650 1,224 123,510
徳 島 939 971 18,242 492 84,300 ◎
香 川 752 2,610 18,892 322 86,400 ◎
愛 媛 515 757 14,536 765 68,850 ◎
高 知 433 1,162 13,270 579 62,300 ◎
福 岡 2,094 2,852 48,321 2,030 176,230 ◎
大 分 603 989 3,340 1,279 18,350
佐 賀 50 85 450 30 200 ◎
熊 本 1,210 1,882 14,126 330 57,850
宮 崎 462 611 3,994 234 16,900 ◎
鹿児島 2,358 2,649 36,094 1,549 150,500 ◎
計 241,309 313,041 2,333,388 110,928 8,045,094 ◎
備考 備考瀾◎印府県は関係報告未着の為内容変動あるを示す
「大東亜戦争終戦に関する資料」
(昭和20年9月4日から同月6日の第88臨時議会に於て配布された政府作成資料)
《「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録・下巻」(外務省編纂,1990.12.23第1刷,山手書房新社発行)及び
「終戦史録」(外務省編纂,昭和27年5月1日,新聞月鑑社発行)から引用、又は参考、原典旧字体縦書き》
関連:終戦記録 議会への報告書並に重要公文書輯/朝日新聞社編/S20.11.15(国立国会図書館デジタル化資料)、コマ番号28-30に同資料あり
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041959>
太平洋戦争による我国の被害総合報告書/経済安定本部総裁官房企画部調査課/S24.4.7(国立公文書館デジタルアーカイブ)、15-16
<http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=eng&BID=F2007021516460707126&ID=&TYPE=&NO=>
財団法人太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会ホームページ〔全国戦災都市別被害状況表等あり〕
<http://www.taiheiyou-ireikyoukai.jp/>
一般戦災ホームページ (総務省ホームページ)
<http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/index.html>
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【広島・長崎の原爆被害】
広島・長崎の原爆被害
項 目 広 島 長 崎
投 下 日 時 1945年8月6日 午前8時15分 1945年8月9日 午前11時2分
投下原爆の種類と呼び名 ウラン爆弾 リトルボーイ プルトニウム爆弾 ファットマン
重量・大きさ 4トン 長さ3m 直径0.7m 4.5トン 長さ3.5m 径1.5m
爆 発 威 力 約15キロトン(TNT換算) 約22キロトン(同左)
放出エネルギー 約14兆カロリー 約20兆カロリー
爆 発 高 度 580m 503m
被 爆 時 人 口 約42万人 約27万人
1945/12末までの死亡者 14±1万人 7±1万人
1950/10(戦後初の
国勢調査)までの死亡者 約20万人 約14万人
爆風による被害
爆心地から 最大風速
の距離(km) (m/秒) 建造物被害 人体被害
0.5 280 全建築物全壊 内臓破裂死亡
0.8 200 全建築物殆んど全壊 〃
1.8 72 全部大損害 挫傷
2.6 36 木造大破 他は中破 打撲・ガラス傷
3.2 28 木造中破 ガラス飛散 ガラス傷
死亡率
爆心地からの距離 広島 長崎
0.5km 96.5% 88.5%
1.0〜1.5km 51.6% 51.5%
1.5〜2.0km 21.9% 28.4%
《杉江栄一・樅木貞雄編著「国際関係資料集」(法律文化社 1997.11.20発行)14頁から》
関連:原爆投下に関するアメリカ政府の公式声明(1945年8月)
米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文(1945.8.10 日本国政府)
国立公文書館 アジア歴史資料センター
標題:1.一般/2 昭和19年10月3日から昭和20年8月8日(P31-32,米機ノ新型爆彈ニ依ル攻撃ニ對スル抗議文)
http://www.jacar.go.jp/jpeg/viewer/jpeg2print.html?ref=B02032456000#/jpeg/djvu2jpeg?item=ba0152a%2Fa-1082%2F00000315&p=31
http://www.jacar.go.jp/jpeg/viewer/jpeg2print.html?ref=B02032456000#/jpeg/djvu2jpeg?item=ba0152a%2Fa-1082%2F00000315&p=32
http://www.jacar.go.jp/jpeg/viewer/jpeg2print.html?ref=B02032435900#/jpeg/djvu2jpeg?item=ba0151a%2Fa-1076%2F00000415&p=4
原爆による被害
<熱線・爆風による被害>
数百万度という超高温に火球から放射された熱線は、主として赤外線と可視光線(肉眼で見える光線)からなり、それによる爆心地の温度は3000−4000度に達しました。
数十万気圧という超高圧の火球から発生した爆風は、先端を超音速ですすむ衝撃波と、そのあとを追って吹く突風からなり、爆心地における衝撃波の圧力は1平方メートル当たり35トン、突風の速度は1秒当たり440メートルに達しました。
<放射線による被害>
初期放射線は、爆心地から2キロメートル以内に強く降りそそぎました。4GY(グレイ)でも半致死量(半数が死亡する線量)とされていることに注目すると、爆心地から約1キロメートル以内で屋外にいた被爆者の半数以上は、初期放射線を主因として亡くなったことになります。
残留放射能には、地面と建造物資材に残ったもの(誘導放射能)と、ウラン原子核が2個に分裂した核破片に生じたもの(死の灰)があります。地面と建物に残った残留放射線は、約1キロメートル以内では爆発後100時間強く残り、また死の灰による残留放射線は、地面と建物に残った放射能と比べて弱かったものの長時間残り、しかも「黒い雨」が降った地域には多量に残りました。
<原爆による人体への影響>
原爆の熱線・爆風・放射線が人体に与えた障害を「原爆症」といいます。原爆症は、大量の放射線が関係したことに特徴があり、急性障害と後障害に大別されています。
急性障害は被爆後4カ月間に現れた病気で、熱傷や外傷による症状のほかに、初期放射線による特徴的症状として、爆心地から1.5キロメートル以内の被爆者に脱毛、出血、白血球減少が顕著(けんちょ)に現れました。
後障害の特徴は、被爆の翌年から現れたケロイドに始まり、その後は特に白内障、白血病、諸種のがん=甲状腺(こうじょうせん)がん、乳がん、肺がんなど、胎内(たいない)被爆者の障害(小頭症や発育不全など)などに、高い発生率がみられました。
さらに、原爆の爆発以後に広島市内に入った人びとにも、残留放射線の影響で発病や死亡したと考えられる事例があります。《「ヒロシマの心を伝える会(The Spirit of HIROSHIMA)」ホームページ「広島に投下された原子爆弾」から》
原爆放射線について
第2次世界大戦で使用された他の兵器にはない、原子爆弾特有の特徴として放射線があります。原子爆弾の放出したエネルギーの50%は爆風に、35%は熱線に、15%は放射線となりました。また、放射線は爆風で飛ばされるものではないため、爆風や熱線が届いたからといって、放射線が届いたわけではありません。
第2次世界大戦は全国民が被害を被った戦争であり、米軍の空襲による被害は全国に及びましたが、広島、長崎の原爆被災者だけに「被爆者援護法」による、特別に手厚い援護施策が実施されているのは、原爆特有の「放射線」があったからです。援護施策のうち、健康手帳の交付や健康管理手当の支給等は、原爆の被害を受けた人をもれなく幅広く救済するため、放射線被曝の要件が相当程度緩和されていますが(被爆者の約9割が健康管理手当(年間約40万円)を受給)、原爆症認定については、被爆者援護法上で放射線起因性を厳密に要求されているため、認定の要件として、その病気が放射線に起因することが必要となります。つまり、いわゆる原爆症と言われているものは「原爆放射線症」のことになります。この放射線起因性という要件を外しまうと、原爆被爆者が一般戦災者より特別に援護されている理由がなくなってしまうのです。
人は日常生活でも放射線を受けています。自然放射線は宇宙や大地から出ており、世界平均で年間2.4ミリシーベルトを被曝しています。また、健康診断や医療行為で人工放射線を利用することもあり、レントゲン写真を撮ると0.6ミリシーベルト、CTスキャンで6.9ミリシーベルトを被曝することになります。一般公衆の線量限度は1ミリシーベルトとされています。がんの治療では数十グレイ(1ミリシーベルトの数万倍)という放射線を浴びることになります。自然放射線も原爆放射線も同じ放射線であり、違いはありません。原爆の放射線起因を考える場合、これらとの整合性を考える必要があります。
原爆の初期放射線(爆弾が爆発した時に出た放射線)は、爆心地から遠くなるほど減少し、長崎では爆心地から3.5km付近で1.0ミリシーベルトにまで減少しました。これより遠距離においては、人が日常生活で受ける放射線よりも少なかったことになります。胸のレントゲン写真を撮ったときに受ける被曝線量は、爆心地から4.0km付近の被曝線量と同じくらいということになります。
また、初期放射線の他に、「残留放射線」もありましたが、原爆投下時から放物線状に急速に減少し、短期間でほとんどなくなりました。長崎では爆心地から100m地点での初期放射線量は約300グレイでしたが、原爆投下24時間後には0.01グレイ(3万分の1)まで減少したとされています。この残留放射線があったことを考慮して、原爆投下時には市内にいなかった入市者にも、幅広く被爆者健康手帳が交付されています。
これらの放射線量は、戦後60年間にわたる専門家達の研究によって得られた唯一の成果である「DS86」及び「DS02」に基づいています。残留放射線についても科学者が被爆地の土や建築資材などを採取して調査してきたデータに基づいているのです。科学的検証に基づいた最も信頼できるデータによっているのであり、原爆の威力を過小評価しているということではありません。原爆による死者は広島では約14万人、長崎では約7万人とも言われており、原爆の殺傷力、破壊力が甚大であることは間違いない事実です。また、最新の核兵器の威力は、64年前に世界初で開発された広島・長崎型の何万倍にもなり、広島・長崎に投下された原爆の何百万倍もの放射線を放出する恐るべき兵器であり、このような核兵器を世界中から廃絶すべきであることには変わりがないのです。《厚生労働省ホームページから》
原子爆弾被爆者
昭和20年8月に広島市と長崎市に投下された原子爆弾によって被害を受けた、被爆者(被爆者健康手帳所持者)の方々の数は平成23年3月31日現在、全国で21万9410人となっています。
在外被爆者(手帳所持者)数 約4300人(平成20年3月現在)
原爆症認定被爆者数(医療特別手当支給者数) 8,552人 (平成25年3月末現在)
被爆者(被爆者健康手帳所持者)数の推移(単位:人) 各年度(末)の被爆者数
昭和32 200,984 昭和42 313,161 昭和52 368,932 昭和55 372,264
昭和62 359,931 平成 9 311,704 平成19 243,692 平成24 201,779
平成25年3月末現在の被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)(単位:人)
1号被爆者(直爆) 124,599 2号被爆者(入市) 48,020
3号被爆者(救護等) 21,764 4号被爆者(胎児) 7,396
《厚生労働省ホームページから》
関連:原子爆弾被爆者対策(厚生労働省ホームページ)
<http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kenkou/genbaku/index.html>
原爆症認定被爆者数の推移(各年3月31日現在)
年(平成) 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
全国(人) 2,169 2,223 2,271 2,251 2,280 2,242 2,188 4,415 6,367 7,210《広島市ホームページ「原子爆弾被爆者に対する援護措置の拡充強化等について」文書から》
被爆二世
Q:被爆者から生まれた子供(被爆二世)にも放射線の影響があるのでしょうか?
A:放射線が被爆者の子供にどのような影響をもたらすかは、被爆後早くから懸念された問題の一つでした。遺伝的影響を検出するための膨大な努力が1940年代後半から開始され、現在も続けられていますが、これまでに調べられた限りでは遺伝的な影響は見いだされていません。しかし、これまでの調査の中には放射線の遺伝的影響を検出するのに適していないものもあったので、このことは必ずしも影響がないことを意味しているわけではありません。《日米共同研究機関財団法人放射線影響研究所ホームページから》
海外のサイト:THE ATOMIC BOMBINGS OF HIROSHIMA AND NAGASAKI「広島と長崎への原爆投下」(Trinity Atomic Web Site:英語)
<http://www.cddc.vt.edu/host/atomic/hiroshim/hiro_med.html>
HIROSHIMA BY JOHN HERSEY THE NEW YORKER AUGUST 31, 1946
<http://www.newyorker.com/magazine/1946/08/31/hiroshima>
関連:NHKスペシャル|見過ごされた被爆〜残留放射線 63年後の真実〜 2008年8月6日(水) 午後8時放送
<http://www.nhk.or.jp/special/detail/2008/0806_2/>
昭和天皇・香淳皇后両陛下の日本記者クラブ記者会見「アメリカ訪問を終えて」 1975.10.31 皇居「石橋の間」 (日本記者クラブHP)
<http://www.jnpc.or.jp/files/opdf/120.pdf>
原爆投下 下田判決(昭和38年12月7日 東京地方裁判所) <http://www.geocities.jp/bluemilesjp/genbaku.html>
赤十字国際委員会(ICRC)本部ウェブサイトに、判決の英訳文が掲載されています。
<http://www.icrc.org/applic/ihl/ihl-nat.nsf/caseLaw.xsp?
documentId=AA559087DBCF1AF5C1256A1C0029F14D&action=openDocument&xp_countrySelected=JP&xp_topicSelected=GVAL-992BU6&from=state/>
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【BC級戦犯】
BC級戦犯
日本人のBC級戦犯への裁判は、1945年(昭20)10月から '51,4月まで、米、英、仏、オランダ、オーストラリア、中国、フィリピンの7か国、49の法廷で実施された。総件数2244件、被告5700人といわれ、裁判の結果、死刑984人、無期刑475人、有期刑2944人をかぞえた。《「角川日本史辞典」から》
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【軍法会議による処刑者】
旧日本軍軍法会議による処刑者数
第071回国会 法務委員会 第43号 昭和四十八年七月十八日(水曜日)会議録から
小林進委員(社会党)発言から
戦時中における軍事裁判によって処刑をされて、そしてまだ差別待遇を受けている者は、大体推計ですが陸海軍合わせまして五万人いらっしゃる。…恩赦でそれはもう権利を復活したじゃないか、あるいは十年たったら一般刑法の規定に基づいて罪名は消えたじゃないか、だから実害はないじゃないかというようなことをおっしゃるのですが、実はそうじゃない。…恩給法に基づいても、まだやはりそういう軍事裁判に処せられたために恩給ももらえない、遺族は遺族扶助料ももらえないというような方々がたくさんいらっしゃる。
結城昌治参考人(作家、かつて東京地検事務官)発言から
明治二年の軍法会議開設以来約五万件、日中戦争以後から数えても約その半分、二万数千件の軍法会議処刑者がございます。…外地における軍法会議の判決書類、判決騰本はほとんど、約九〇%は東京地検の倉庫に眠っております。…恩赦カード(を作る仕事の従事から)軍法会議の書類に接する機会が数年間…その中で特に記憶に残っておりまして…、戦闘の最中に敵弾を受けて意識不明におちいる。それで動くにも動けない。そこを敵軍に捕えられて運び去られてしまった。…敵軍八路軍と一緒に行動させられた。…そのわずかのすきを見て敵軍から逃亡して日本軍のところに戻ってきた。…ところが、日本軍はそれをつかまえて、おまえは敵前逃亡である、あるいは奔敵であるといって死刑です。こういう例が一つや二つではない。おそらく枚挙にいとまがないくらいあるわけです。せっかく日本軍に戻ってきたのに、なぜ死刑にしてしまうのか。…いわゆる「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」ですか、そういうものが思想的に背景にあって、兵隊、下士官を思想的に統一するための見せしめとして、敵につかまったらこのとおり死刑になるんだ、つかまるくらいなら自決をしろという思想あるいは威嚇が背景にあったのではないか。それでせっかく敵の手中から脱出して日本軍に戻ってきてもう一度日本のため天皇陛下のために戦いたいという者を死刑にしています。
《衆議院会議録情報 第071回国会 法務委員会 第43号
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/071/0080/07107180080043c.html>より引用しました。》
関連:軍法会議/軍刑法 (大東亜戦争研究室ホームページ 資料/専門軍事用語・兵語の解説)
<http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/siryo/siryo05.html>
NHKスペシャル|戦場の軍法会議〜処刑された日本兵〜 2012年8月14日(火)午後10時00分〜10時49分放送
<http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0814_2/>
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【「戦陣訓」の思想】
「戦陣訓」の思想
絶望的抗戦の時期に、多数の戦死者を出したのは、この時期に「戦陣訓」の思想の徹底した「実践」がおこなわれたからでもあった。一九四一年(昭和十六)一月に、東條英機陸相によって布達された「戦陣訓」は、戦場において将兵が身につけなければならない道徳を説いたものであり、「軍人勅諭」の戦場版とでもいうべき性格を持っていた。
…この「戦陣訓」は、「生きて虜囚の辱を受けず」というかたちで、捕虜を恥辱とする思想を公的に定式化し、投降を事実上、禁じたことでも有名である。このような考え方が強調されるのようになるのは、満州事変以降のことだが、「戦陣訓」の制定によって、日本軍将兵は、組織的な抵抗が終わった後にも降伏することを最終的に禁じられたのである。戦争中、連合軍の捕虜となった日本軍兵士の数は、三万五〇〇〇名ほどにすぎず、ドイツ軍捕虜の九四万五一〇〇名、イタリア軍捕虜の四九万六〇〇名とくらべてはるかに少ない数字である(ウルリック・ストラウス『戦陣訓の呪縛』中央公論新社、二〇〇五年)。《『アジア・太平洋戦争』(吉田裕・森茂樹著 2007.8.1 吉川弘文館発行)249頁から》
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【日本兵捕虜】
収容地別の日本兵捕虜の推計(1945年8月頃)
収容地 人 数 出 所 収容地 人 数 出 所
米 本 土 約5,000 米陸軍省 ニュージーランド 797 厚生省
ハ ワ イ 3,800 同上 蘭領インド 263 豪州陸軍史
サイパン・グアム 1,754 GHQ報告 イ ン ド 2,296 インド国防省
沖 縄 約10,000 米軍戦史 ビ ル マ 800 美山情報
フィリピン 12,573 米軍戦史 中国(国府) 1,358 支那総軍
豪州・ニューギニア 5,593 豪州陸軍史 中国(中央) 6,959 中国政府
仮 計 51,193
(秦郁彦『日本人捕虜』下巻より)《「米軍による日本兵捕虜写真集」(2001 山本武利編 青史出版)129頁から》
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【日本軍に捕らえられた連合国捕虜・民間人抑留者等】
日本軍に捕らえられた捕虜等
アジア太平洋戦争では、日本軍の捕虜になった連合軍将兵は約三五万人にのぼり、この内二九万人が開戦後六ヵ月以内に捕まった者である。この中でイギリス、オランダ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの本国軍将兵が約一五万人であり、残りがインド人やフィリピン人などの植民地軍兵士である。植民地軍兵士の多くは、日本軍に協力することを宣誓させたうえで釈放したり、インド人の場合、日本軍が作らせたインド国民軍に編入されたりしているが、一部にはシンガポールのマレー人将校のように協力の宣誓を拒否して処刑された捕虜もいる。
また 中国戦線では膨大な捕虜がいたと見られるが、日本軍は中国人を捕虜として扱わずに集団虐殺してしまったり、強制労働させたうえで処刑したりしており、その数はわからない。
東京裁判速記録337号「俘虜最終論告附属書B」による連合国捕虜の総捕獲数と死亡率
国 別 総捕獲数 死亡者数 死亡率
オーストラリア 21,726人 7,412人 34.1%
カ ナ ダ 1,691 273 16.1
イ ギ リ ス 50,016 12,433 24.8
ニュージーランド 121 31 25.6
ア メ リ カ 21,580 7,107 32.9
オ ラ ン ダ 37,000 8,500 22.9
合計(平均死亡率) 132,134 35,756 27.1
各国捕虜団体の調査報告による連合国捕虜の総捕獲数と死亡率
(『連合国捕虜虐待と戦争責任』岩波ブックレット)
国 別 総捕獲数 死亡者数 死亡率
オーストラリア 22,376人 8,031人 35.8%
カ ナ ダ 1,975 557 28.2
イ ギ リ ス 50,016 12,433 24.8
ニュージーランド 121 37 30.5
ア メ リ カ 33,223 12,909 38.8
オ ラ ン ダ 41,000 8,500 22.7
合計(平均死亡率) 148,711 42,467 28.5
《『キーワード日本の戦争犯罪』(小田部雄次ほか著 1995.6.20 雄山閣発行)98頁から》
捕虜統計
国籍別の死亡率
アメリカ人 イギリス人、オーストラリア人、 オランダ人
英国系インド人
捕 虜 合 計 25,600人 130,000人 37,000人
捕 虜 死 亡 10,650人 8,100人 8,500人
死 亡 率 41.6% 6.2% 23%
強制労働者(オランダ領インドシナ、現インドネシア)
労 務 者 300,000人
労務者死亡 230,000人
死 亡 率 76.6%
第二次大戦中にナチス(ドイツ軍)または日本軍に捕らえられたアメリカ人の行方
米軍人の捕虜
ナチス % 日本軍 %
米軍人捕虜人数 93,941人 --- 36,260人 ---
死亡した捕虜 1,121人 1.1% 13,851人 38.2%
2000年1月現在の生存者 44,773人 47.6% 5,745人 15.8%
抑留されたアメリカ民間人
ナチス % 日本軍 %
抑留された民間人数 4,746人 --- 13,996人 ---
死亡した人数 168人 3.5% 1,536人 11%
2000年1月現在の生存者 1,521人 32% 1,497人 10.7%
出所: AXPOW Association, March 15, 2000
太平洋戦線のアメリカ人捕虜
地域別の捕虜人数
フ ィ リ ピ ン 22,000
ウ ェ ー キ 島 1,555
ジャワ(インドネシア) 890
グ ア ム 400
日 本、 その他 300
セレベス(インドネシア) 255
中 国 200
計 25,600
殺害された又は死亡した捕虜人数
フ ィ リ ピ ン 5,135
囚 人 船 上 3,840
日 本 1,200
満 州 (中国) 175
ビ ル マ 130
ウ ェ ー キ 島 100
朝 鮮 70
計 10,650
解放された捕虜人数(解放地域別)
日 本 11,400
フ ィ リ ピ ン 1,500
満 州 (中国) 1,200
ビルマ・タ イ 480
セレベス(インドネシア) 200
朝 鮮 150
中 国 20
計 14,950
出所: Surrender and Survival:
The Experience of American POWs in the Pacific by E. Bartlett Kerr, 1985
日本の統計から
日本軍が捕らえた捕虜(1942年6月7日現在)
アメリカ軍 15,000
イギリス軍 64,000(カナダ人1,600、オーストラリア人17,000人を含む)
蘭領東印軍 24,000
重 慶 軍 44,000
そ の 他 185,000(ビルマ重慶軍と国籍不明の捕虜を含む;
ほぼ十万人のインドネシア人兵士のほとんどは解放された)
計 242,000(5/31まで)
出所:Documents Relating to Treatment of Prisoners of War,
Research Institute of Ministry of Health & Welfare, June 10, 1942
注:合計は明らかに不正確。中国本土での捕虜の合計は、1940年の50,100人が、
1941年には104,700人に増えた。
国 白 人 捕 虜 計 備 考
将 校 その他
イ ギ リ ス 4,809 41,518 46,327
オランダ(欧州人) 2,357 21,211 23,568
オーストラリア 987 15,814 16,801
ア メ リ カ 456 5,184 5,640 10,633(1)
カ ナ ダ 73 1,611 1,684
ニュージーランド 22 52 74
南 ア フ リ カ 17 15 32
そ の 他 5 216 221 1,706(2) +591(3) 3,890(4)
合 計 8,726 85,621 94,347 11,167(5)
(1) フィリピンで捕らえたアメリカ人兵士
(2) ビルマで捕らえた;英軍・中国軍兵士及びビルマ人を含むと思われる
(3) ニューギニアでの捕虜;英軍兵士と現地人を含むと思われる
(4) ボルネオでの捕虜;英軍と蘭軍の兵士、現地人を含むと思われる
(5) この数字は、1942年8月版捕虜月報(1942.9.10発行)で、白人捕虜合計が125,309人に増加している。
国 非白人捕虜 国 籍 過去の解放 解放日(1942年8月を介して)
フィリピン 42,539 フィリピン人 4,167(1) 6月9日〜7月20日
(7月20日現在)
マ レ ー 71,319 インド人 --- (2)
2,700 インドネシア人 1,080 5月11日〜6月22日
0 マレー人 11
ジ ャ ワ 15,962 インドネシア人 18,151 ---
(8月10日現在)
ビ ル マ 1,730 インド人 --- ┐
0 ビルマ人 1,000 ┘ ---
英領 ボルネオ 561 インド人 ┐
369 インドネシア人 ┘ --- 解放の予定なし
香 港 1,856 インド人 ┐
110 中国人 │ --- ---
5 その他 ┘
上 海 25 中国人 --- Interned w/o release
(1) フィリピン軍事作戦に関わった約6,000人の家族、患者、看護人が解放された。
(2) 36,200人は解放されず。いくつかの採石場…の仕事に使用されたか。他は軍の間で分散。
出所: August 1942 edition of Horyo Geppo (POW Monthly Bulletin), POW Bureau
ソ連に抑留された日本人は575,000名で、その内55,000名が死亡した.死亡率は9.6%であった.
《「Fukuoka POW Camp #1 - Page 4」<http://home.comcast.net/~winjerd/Page04.htm>
中の表の記述を参考に構成しました。》
旧日本軍が拘束した連合国捕虜・民間抑留者及び中立国の抑留者
[第159回国会において参議院議長に提出された谷博之議員による質問主意書(質問第18号:平成16年4月28日)とそれに対する小泉純一郎内閣総理大臣の答弁書(平成16年6月4日)から]
第二次大戦中に旧日本軍が拘束した連合国捕虜・民間抑留者及び中立国の抑留者について、その国別の総数及び帰還者数と死亡者数の内訳並びに捕虜・抑留者を労働させた事業所の数を、それらのデータの出典とともに明らかにされたい。
お尋ねの我が国が先の大戦において拘束した連合国の捕虜、民間抑留者及び中立国の抑留者の人数等について、「俘虜取扱の記録」(昭和三十年十二月総理府俘虜情報局作成)によれば、次のとおりである。
1 連合国の捕虜については、「太平洋戦争中捕獲された連合国軍ふ虜は約三十五万名で、このうち約三万三千名は、病死或は船舶輸送途中遭難によつて爆死又は海没し、約十八万名は原住民ふ虜であつた。その後逐次解放して昭和二十年八月(終戦時)のふ虜総人員は約十二万八千四百六十三名」と記録されているが、その国別の総数及び帰還者数と死亡者数の内訳については記録されていない。
2 連合国の民間抑留者及び中立国の抑留者については、その国別の総数及び帰還者数については記録されていないが、「俘虜取扱の記録」の付表「軍抑留所別国籍別死亡者人員表」によれば、旧日本軍による抑留者のうち国籍別の死亡者については、オランダ七千三百十三名、英国五百五十八名、米国百六十九名、オーストラリア三十五名、カナダ五名、その他二百六名である。
3 連合国の捕虜の労務場所については、「俘虜取扱の記録」の付表「内地に於ける俘虜労務概見表」及び「外地に於ける俘虜労務概見表」によれば、三百か所以上の労務場所が存在していたことが記録されている。
なお、抑留者の労務場所については記録されていない。
日本国政府がサンフランシスコ平和条約第16条に基づき赤十字国際委員会(ICRC)を通して行った連合国の元捕虜及び民間抑留者に対する支払いの各国の対象者数
オーストラリア 22,415 ベルギー 3 カンボジア 42 カ ナ ダ 1,737
チ リ 1 フランス 10,442 ノルウェー 4 ニュージーランド 119
パキスタン 19,872 オランダ 42,233 フィリピン 44,055 英 国 58,175
シ リ ア 1 ベトナム 4,500
注:米国は同条に基づくICRCからの分配を放棄したのでこれには載っていない。
《参議院ホームページ内の「質問主意書」を参考に構成しました。》
<http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/159/syuh/s159018.htm>
<http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/159/touh/t159018.htm>
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【日本軍の配置人員数、海外からの引揚者数】
終戦時における日本軍の配置人員数
陸 軍 海 軍 総 計
日 本 本 土 2,388,000 1,972,000 4,360,000 (小笠原諸島を含む)
千 島 ・ 樺 太 88,000 3,000 91,000
台湾・南西諸島 169,000 75,000 244,000
朝 鮮 294,000 42,000 336,000
満 州 664,000 664,000
中 国 本 土 1,056,000 71,000 1,127,000 (海軍は香港を含む)
南 方 方 面 744,000 202,000 946,000 (中部太平洋を含む)
ラバウル方面 70,000 56,000 126,000 (南東太平洋)
計 5,473,000 2,421,000 7,894,000
内、 海外配置人員 3,085,000 449,000 3,534,000
総数に対する比率 56.4% 18.5% 44.8%
〈『引揚げと援護三十年の歩み』(厚生省)より〉《『戦後引揚げの記録』(1991 若槻泰雄 時事通信社)から》
海外からの引揚者数
総 数 軍人・軍属 邦人(民間人)
本土隣接諸島 62,389 60,007 2,382
沖 縄 69,416 57,364 12,052
千 島・樺 太 293,496 16,006 277,490
韓 国 597,319 181,209 416,110
北 朝 鮮 322,585 25,391 297,194
台 湾 479,544 157,388 322,156
満 州 1,271,479 52,833 1,218,646 (旧満州国及び大連)
中 国 1,540,183 1,044,460 495,723
香 港 19,347 14,285 5,062
東 南 アジア 711,507 655,330 56,177
ベ ト ナ ム 32,303 28,710 3,593 (旧仏領印度支那)
インドネシア 15,593 14,129 1,464 (旧蘭領東印度)
フィリピン 133,123 108,912 24,211
太平洋諸島 130,968 103,462 27,506
ハ ワ イ 3,659 3,349 310
オーストラリア 138,843 130,398 8,445
ニュージーランド 797 391 406
ソ 連 472,945 453,787 19,158
総 計 6,295,496 3,107,411 3,188,085
この引揚者は、上陸地において引揚手続を行った者のみ計上し、引揚手続を経ないで帰還したものは含まれていない。
地域区分は、出陸地の所在する地域で分類しており、日中国交正常化後の中国東北部(旧満州)残留邦人の引揚げについては「中国」に分類して掲載している。〈「援護五十年史」(厚生省)をもとに作成〉《「遥かなる紅い夕日」(2006 平和祈念事業特別基金)から》
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【戦争孤児、特殊婦人、GIベビー、混血孤児】
戦争孤児
全国孤児一斉調査結果から (昭和23年2月) 厚生省児童局企画課調
孤児の男女別年齢別保護者別 (昭和23年2月1日現在)
◎沖縄を除く全国都道府県(1都1道2府42県)の計
◎計 男 女 1-2歳 3歳 4-7歳 8-14歳 15-20歳 ☆A B C
123,511 68,487 55,024 554 719 13,213 57,731 51,294 12,202 107,108 4,201
☆A:施設に収容保護されているもの
B:祖父母,姉兄,親戚,知人その他により保護されているもの
C:保護者なくして独立して生活を営むもの
戦災孤児 引揚孤児 一般孤児 棄迷児 計 以上の内浮浪の経験ある者
28,248(4,055) 11,351(1,140) 81,266(5,508) 2,647(1,501) 123,511(12,202) 7,117(5,584)
括弧内は収容保護施設内の児童の数である。
《「戦争孤児の会」ホームページ<http://www16.plala.or.jp/senso-koji/>掲載資料より》
特殊婦人
…援護局では、引揚船に衛生担当員を乗せた。出航から仙崎入港までの間に、リーフレットを配り、特殊婦人とよばれる人びとの援護治療の趣旨を説明した。また、引率責任者から実情を聞き、レイプされた人を出してもらった。井手・村田反応検査で性病を検出した。
特殊婦人の検診結果
受診者数 健康 淋病 梅毒 妊娠者(流産) その他の疾患
既婚者 2,560 747 801 158 539 (77) 315
未婚者 1,042 192 526 121 142 (21) 61
…二日市保養所では46年に、疾患のない引揚者168人の、人工流産を行なった。妊娠月数と処置人数はつぎのとおりである。
5ヵ月 41人、6ヵ月 40人、7ヵ月 43人、8ヵ月 23人、9ヵ月 13人、10ヵ月 8人
…46年4月から8月までの仙崎での資料は、つぎのとおりである。
北朝鮮 満 州 合 計
該当婦人数 11,288 5,959 17,247
相談受診者 4,477 5,130 9,607
妊 娠 者 26 85 111
性 病 者 127 262 389
そ の 他 73 62 135
入 院 者 39 55 94
〈『仙崎引揚援護局史」(1946年 同局)等〉
《「さらば仙崎引揚港」(萩原晋太郎著 1985.9.16 マルジェ社発行) 108頁の記述より構成しました。》
GIベビー・混血孤児
厚生省は1953年(昭和28年)に実態調査を行い、その結果、当時の混血児は3,490人(他に児童福祉施設収容中のもの482人、合計3,972人)で、その84%が白人系、11%が黒人系であることを明らかにした。
《「児童相談所のあり方に関する研究」(H25.3.29 子どもの虹情報研修センター発行)内記述から》
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【シベリア抑留と開拓団の悲惨、ソ連軍侵攻による人的被害、未帰還者問題】
シベリア抑留と開拓団の悲惨
八月十五日、終戦の詔勅が放送され、十六日夜半には関東軍総司令官は全軍に停戦命令を発した。前線の隅々まで命令が届くまでは十日以上もかかったが、いずれの部隊もおおむねこれを受け入れ、現地ソ連軍の武装解除に応じた。
ソ連軍は関東軍の武装解除をすすめると同時に、一千名単位の作業大隊を組織して、列車で続々とソ連領内に送り込んだ。関東軍の将兵に限らず、北緯三十八度以北の朝鮮にあった日本軍将兵はもとより、満州の民間人男子、樺太・千島の将兵・民間人男子を含めてその数は五十七万名以上(六十四万名ともいわれる)にのぼった。彼らはシベリアを中心に、何年にもわたって鉄道・道路建設、森林伐採、鉱山労働などに従事されられたのである。
一方、二十七万名ともいわれる満州開拓団は、ソ連侵攻と同時に着の身着のままで南をめざして逃避行を余儀なくされた。その中には、例えば東安省鶏寧県哈達河開拓団一千三百名が逃げる途中、麻山というところでソ連軍と中国人ゲリラの挟み打ちにあい、進退きわまって集団自決した(「麻山事件」)というケースも少なくなかった。こうして十万名が逃避行の途中で犠牲となった。国策に従って中国人の耕地を奪い、入植した開拓団ではあったが、敗戦によるその末路は悲惨であった。現在、中国残留孤児と呼ばれる人々は、その逃避行の中で中国人に預けられたり拾われたり、あるいは買われたりした人々である。
平成四年六月、シベリア強制連行はスターリン首相(当時)の直接指令に基づくものだったという文書が公開された。翌五年十月、訪日したエリツィン・ロシア大統領は…謝罪し、六万一千八百五名の死亡者名簿フロッピーが引き渡された。 《「図説 太平洋戦争」(2005増補改訂版 池田清編 河出書房新社)134頁・149頁から》
軍人・軍属及び一般邦人の強制抑留者の合計
軍人・軍属強制抑留者 536,243人
一般邦人強制抑留者 38,991人
(行政官・司法官等の官吏、警察官(国境警察、鉄道警察)、教員、協和会幹部・新聞記者、満鉄・電電等の大企業社員など)
合 計 575,234人
〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉
ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された強制抑留者の総数 575,000人
日本本土への直接帰還者数 473,000人
逆送者数 47,000人
未帰還者(死亡認定者)数 55,000人
〈『引揚げと援護三十年の歩み』(1978 厚生省援護局編 ぎょうせい)〉
ソ連本土(モンゴルを含む)に移送された一般邦人の地域別内訳
満州 28,152
関東州 1,500
北支 500
北朝鮮 4,112
南樺太 1,240
千島(北方領土を含む) 464
満州・関東州 1,870
満州・北朝鮮 669
満州・関東州・北朝鮮 484
計 38,991
(注:二つ以上の地域が記載されている項目は、満州からの移動後拘束されたことを示す)
〈外務省資料「調書『邦人抑留事情概要』」〉
《『戦後強制抑留史 第四巻』(平成17年3月 平和祈念事業特別基金)から》
<http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8174689/www.heiwa.go.jp/yokuryu/>
ソ連の資料による抑留者数
ソ連内務省軍事捕虜・抑留担当総局の(ソ連内務省次官に対する)報告によると、日本人捕虜の総数六〇万九四四八人(日本軍人、軍属だった中国人、朝鮮人、モンゴル人、満州人、ロシア人などを含めると六三万九七七六人)、本国へ送還した者五四万六七五二人、死亡した者六万一八五五人となっている。《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)30頁から》
日本人強制抑留者数
ソ連に抑留された日本人は約60万人、死亡したのは約6万人と云われていますが、
シベリアに強制抑留された日本人は、
ソ連内務省文書には、105万2467人、
アメリカのマッカーサー元帥の記念文書館には、111万1650人となっています。
また、死亡者は、37万4041人とも伝えられています。(新潮社『プリンス近衛殺人事件』)
抑留者、死亡者の実数は不明であるというのが実態です。
一九四六年夏、ソ連にいた日本人捕虜は百十一万千六百五十人であった。
(米ヴァージニア州、マッカーサー元帥記念文書館)
内務省のラーゲリには百五万二千四百六十七人の日本人が収容されている。
(ソ連〈現ロシア〉クレムリンの内部文書)
V・Aアルハンゲリスキー著 瀧澤一郎訳
『プリンス近衛殺人事件』新潮社発行より
ソ連地区の引揚状況を顧みまするに、これは滞留すること一カ年半の後、即ち昭和二十一年の末から漸く引揚が開始され、翌二十二年十二月までに六十二万五千名、昨二十三年五月から十二月までに二十八万九千名という引揚状況でありまして、誠に遅々たるの感なきを得ないのであります。
而も尚、取残された四十万の人々は、遂に四度の冬をあの厳寒の地に送り迎えしなければならない状況に置かれ、―略―
又中共地区に残された六万の同胞は戦塵なお収まらざる中にあって、昨二十三年八月以降、帰還の途も全く途絶え、帰国の希望も失われんとするかの中に労苦を重ねておられるのであります。
『海外残留同胞引揚促進に関する決議案』提案理由から
昭和二十四年四月二十六日 第五国会・参議院・本会議
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/005/0512/00504260512019a.html>
《シベリア抑留関係展示会の展示資料から》
第二次世界大戦で捕虜になったドイツ兵は約千百万人。ソ連軍に捕らえられたのは約三百五十万人で、うち約百十万人が死亡した。シベリア抑留で日本人将兵は約一割が死亡しているが、それと比べ、ドイツ人の死亡率は格段に高い。《「続・はるかなシベリア」(1995.9.28 北海道新聞社発行) 72頁から》
ソ連に抑留された軍事捕虜の国別内訳
(1941年6月〜45年9月)
ド イ ツ 2,389,560 日 本 639,635 ハ ン ガ リ ー 513,767
ル ー マ ニ ア 187,370 オーストリア 156,682 チェコスロバキア 69,977
ポ ー ラ ン ド 60,280 イ タ リ ア 48,957 フ ラ ン ス 23,136
ユーゴスラビア 21,822 モ ル ダ ビ ア 14,129 中 国 12,928
ユ ダ ヤ 10,173 朝 鮮 7,785 オ ラ ン ダ 4,729
モ ン ゴ ル 3,608 フィンランド 2,377 ベ ル ギ ー 2,010
ルクセンブルグ 1,652 オランダ・ダッチ 457 ス ペ イ ン 452
ジ プ シ ー 383 ノ ル ウ ェ ー 101 スウェーデン 72
24ヶ国合計 4,172,042人
〈『軍事歴史雑誌』(1990年9月号)〉《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)12頁から》
「和平交渉の要綱」から
(四五年七月、和平工作の仲介をソ連に依頼するため、昭和天皇の特使としてモスクワに派遣されることになった近衛文麿が準備したもの)
「国体の護持は絶対にして、一歩も譲らざること。」(条件の(一)の(イ))
「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。」(要綱の(三)の(ロ))
「若干を現地に残留とは、老年次兵は帰還せしめ、若年次兵は一時労務に服せしめること、等を含むものとす。」(解説の(三)の三の(ロ))
「賠償として、一部の労力を提供することには同意す。」(要綱の(三)の(イ))
関東軍総司令部「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」から
(八月二十六日付、山田関東軍総司令官の決裁をうけた極東ソ連軍の最高司令官にあてた陳情書)
「居留民は目下の処、総計百三十五万と推定致して居ります。之等の大部は元来満州に居住し一定の生業を営みあるものにて、其の希望者はなるべく駐満の上、貴軍の経営に協力せしめ、其他は内地に帰還せしめられ度いと存じます」
「次は軍人の処置であります。之につきましても、当然貴軍に於て御計画あることと存じますが、元々満州に生業を有し家庭を有するもの並に希望者は満州に止って貴軍の経営に協力せしめ、其他は逐次内地に帰還せしめられ度いと存じます。右帰還迄の間に於きましては、極力貴軍の経営に協力する如く御使い願い度いと思います。……其の他、例へば撫順等の炭鉱に於て石炭発掘に当り、若くは満鉄、電々、製鉄会社等に働かせて戴き、貴軍隊を始め満州全般の為、本冬季の最大難問題たる石炭の取得、其の他に当り度いと思います」
《『シベリア抑留-いま問われるもの-』(堀江則雄 2001 東洋書店)22頁・26頁から》
「日本軍事捕虜五十万人の受入れ、収容、労働利用に関する国家防衛委員会決議 9898cc」 1945年8月23日付
Поствановление ГКО СССР .9898сс от 23 августа 1945 г.
О приеме, размещении и трудовом использовании 500.000 военнопленных японской армии.
<http://www.memorial.krsk.ru/DOKUMENT/USSR/450823.htm>
ボリス・エリツィン・ロシア連邦大統領の1993年10月の訪日に際しなされた謝罪表明
《『シベリア抑留者-大統領の謝罪と抑留問題の決着-』(石ア誠一著 1997 全貌社)254頁から引用》
かつてソ連の地で、多くの日本人が亡くなれたことに対し、深い哀悼の意を表します。(10月12日、皇居における天皇皇后両陛下との会見の席で)
日露関係の将来を楽観的にみている。法と正義の原則に基づいて発展させたい。ロシアは旧ソ連の真の継承国としてソ連の締結したすべての条約を守り、ソ連の負っていた責任と義務を果たす。シベリア抑留者問題は、全体主義の残滓である。全体主義のもとでロシア国民数百万人が亡くなったことは、この問題を正当化するものではない。亡くなられた方の墓地の一部は建設現場になったりし、遺骨の発掘とかあるいは日本への輸送という面についても全力を尽くしたい。ロシア政府、国民を代表して、この非人間的な行為に対して謝罪の意を表明する。(同日、迎賓館での全体会議席上で)
シベリア抑留はソ連全体主義の犯罪であった。犠牲者と、その遺族に対して謝罪する。(同日、経済七団体主催大統領歓迎昼食会会場で)
日露両国民の間で、パートナーシップの精神に基づいて、新しい心理的関係を作ることが、互いの問題の理解と解決につながるだろう。日本とソ連の苦しい時代は、終りにする。私はスターリンの非人間的で全体主義的な体制が抑留者の皆さんにしてきたことに、深い哀悼と謝罪の意を表し、遺族の皆さんが必ず追悼を行なえるよう、約束した。(同日、迎賓館での第一回日露首脳会談終了後の記者会見の席で)
…歴史は書き換え得るものではありませんし、我々が共に受け継いだ遺産であります。歴史には双方の罪があるでしょう。それに際して、それぞれの罪の重さを計ろうとすることは、ふさわしくないことでありましょう。しかしながら、我々としては、我が国に捕虜として収容された貴国国民の同胞を、決して忘れません。その方々に対して、むごく不当なことがなされたのです。そのなかの多くの人々は、ロシアの地で亡くなりました。深く哀悼の意を表します。ロシア連邦の大統領として、またロシア政府を代表してこの全体主義が犯した罪に対し、謝罪の意を表します。(同日、皇居豊明殿での宮中晩餐会で)
エリツィン露大統領歓迎午餐会における細川内閣総理大臣の挨拶 1993.10.13 (東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室HP)
<http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPRU/19931013.S1J.html>
元抑留者への補償
支給実績(旧平和祈念事業特別基金HP/国立国会図書館WARP)
<http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8174689/www.heiwa.go.jp/siberia/pdf/shori20120920.pdf>
関連:NHK[ハイビジョン特集]引き裂かれた歳月 証言記録 シベリア抑留 2010-11-28放送 (NHKホームページ)
<http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001230001_00000>
旧ソ連邦及びモンゴル抑留中死亡者名簿(厚生労働省HP)<http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/>
シベリア抑留死亡者名簿 村山常雄氏 編・著 <http://yokuryu.huu.cc/index.html>
ソ連軍侵攻による人的被害(死亡者)一覧
ソ連侵攻前軍人 20.8.9から 8.18 関東軍停戦命 抑留中の死者(モンゴル・
分 類 ・民間人の合計 までの戦闘中死者 令以後の死者 樺太・千島・北鮮を含む)
満 州
陸海軍軍人・軍属 692,000 26,500 20,200 62,636
民 間 人 1,390,000 30,000 164,800
樺太・千島
陸海軍軍人・軍属 102,000 11,000 400
民 間 人 401,500 13,000
北 朝 鮮
陸海軍軍人・軍属 105,600 3,200 7,400
民 間 人 280,000 27,728
計
陸海軍軍人・軍属 899,600 @40,700 A28,000
民 間 人 2,071,500 B30,000 C205,528
総 計 2,971,100 @+A+B+C 304,228 D62,636
ソ連軍侵攻による日本人死者数 366,864人 @+A+B+C+D
参考資料:『援護五十年史』厚生省社会・援護局〈ぎょうせい・平成9年〉
『シベリア捕虜収容所 上・下』若槻泰雄〈サイマル出版会・昭和54年〉
『続・回想のシベリア』斎藤六郎〈全抑協・平成2年〉
ソ連抑留中の死亡者数は、昭和33年発表の厚生省聞き取り調査発表による。
註:これら数字は資料によりまちまちであり、なかなか正確なものが把握出来ないことを付記する。
《「世界に開かれた昭和の戦争記念館 第2巻」(名越二荒之助編 H13.10.5 展転社発行)100頁掲載図から》
旧満州地区省別死亡者概数
…旧満州における死亡者は、日ソ戦闘間に約6万人、終戦以後において約18万5,000人、合計約24万5,000人に達
するものと推定され、その旧満州地区省別死亡者の概数は次のとおりであった。
省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数 省 名 死亡人数
黒 河 省 2,800 興 安 省 8,600 北 安 省 4,900 龍 江 省 7,100 浜 江 省 33,000 三 江 省 11,100
東 安 省 9,500 牡丹江省 24,000 吉 林 省 42,200 四 平 省 4,100 間 島 省 21,500 通 化 省 5,700
奉 天 省 47,400 安 東 省 3,400 綿 州 省 3,200 熱 河 省 900 関 東 州 16,000 (合 計 245,400)
《『援護五十年史』(厚生省社会・援護局 援護五十年史編集委員会監修 平成9年3月 ぎょうせい発行)86頁から》
満州開拓民等の敗戦に基づく死亡者数
全 体 開拓民 非開拓民
終戦時在満邦人数(関東州を含む) 1,550,000人 270,000人 1,280,000人
敗戦に基づく一般邦人の死亡者数 176,000人 78,500人 97,500人
何人に一人が死亡したか 8.81人 3.44人 13.13人
死亡指数(非開拓民比) 1.49 3.82 1.00
《鍛治致氏のネット掲載著書「「中国残留邦人」の形成と受入について」から、鍛治氏が、満州開拓史刊行会(1966:437)を参考に、
「開拓民と非開拓民の間における死亡者数等についての差異」として作成されたものを引用しました。》
<http://www.kikokusha-center.or.jp/resource/ronbun/kakuron/24/kaji.pdf>
未帰還者問題
終戦時、ソ連軍の占領した地域には、軍民あわせて約二百七十二万六千人の日本人がいた。
(全海外同胞の41%)(終戦当時、海外の日本人の総数は推定六百六十万人余(1945年の日本の総人口七千二百万人の9.2%))
満州・関東州 1,945,000人
北朝鮮 410,000人
南樺太・千島、 北方領土 371,000人
計 2,726,000人
参議院 1950年5月2日 国会決議
日本国民は終戦以来ポツダム宣言を忠実に履行して今日に至った。しかるに終戦以来五箇年に垂(なんな)んとする今日 なお約三十七万名の日本人がソ連ならびにソ連の勢力下にある地域(シベリア、樺太、北朝鮮、大連ならびに中共地域を含む)に残留せしめられ生死不明の状況にある。政府は総司令部を通じソ連に対し正式の報告を求めたにもかかわらず、ソ連よりなんら正式の報告がないので、いまや留守家族はもちろん全日本国民の心痛はその極に達している。本院は、ここに院議としてわが国民のその気持を代表し 連合国最高司令官に対し国際連合を通じて世界の正義と世論に訴え 本件のすみやかなる解決のためあらゆる援助を与えられんことを要望するとともに、特に左の点の実現についてご配慮を懇請する。
一、ソ連ならびにソ連の勢力下にある地域(シベリア、樺太、北朝鮮、大連ならびに中共地域を含む)の残留者全員をすみやかに帰還せしめられたい。
二、ソ連ならびにソ連の勢力下の地域に抑留中死亡した者ならびに戦犯関係として抑留されている者、一般受刑者及び病気にて残留している者などの氏名をすみやかに発表せしめられたい。
三、ソ連ならびにソ連の勢力下にある地域に残留せしめられた日本人の生死及び動静を調査するため国際連合または中立の機関もしくは人道機関よりすみやかに調査団を派遣せしめられたい。
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/007/0512/00705020512047a.html>
1950年10月実施の国勢調査により把握した未帰還者数(1951.5.1当時)
地 域 生存者数 死亡者数 生死不明者数 合 計
ソ連(モンゴルを含む) 17,841 42.390 0 60,231
満州・関東州 53,948 158,099 26,492 238,539
北朝鮮 3,303 27,728 1,431 32,462
南樺太・千島、 北方領土 2,545 5,934 874 9,353
計 77,637 234,151 28,797 340,585
「吉田外務大臣発国際連合総会議長宛1951.6.19付書翰」「ステートメント」から
地 域 終戦時数 引揚数 未帰還数
ソ連(モンゴルを含む) 0 470,000 −
満州・関東州 1,945,000 1,271,000 −
北朝鮮 410,000 323,000 −
南樺太・千島、 北方領土 371,000 293,000 −
計 2,726,000 2,357,000 369,000
その後の引揚げ(*)をもとに加算修正された帰還者数と未帰還者数
地 域 終戦時人数 帰還者数 * 未帰還者数
ソ連領土 0 473,000(+ 2,570) −
満州・関東州 1,945,000 1,303,500(+32,506) −
北朝鮮 410,000 323,000(+ 36) −
南樺太・千島 371,000 293,500(+ 766) −
合 計 2,726,000 2,393,000(+35,878) 333,000
*「後期集団引揚」:ソ連地域(1953.12-1959.9)、中国地域(1953.3-1958.7)、北朝鮮地域(1956.4)
〈「後期集団引揚」の数値は『援護五十年史』(1997 厚生省社会・援護局援護五十年史編集委員会監修 ぎょうせい)から〉
ソ連本土(モンゴルを含む)に移送・抑留された強制抑留者の人数、帰還者数及び未帰還者数
抑留者数 帰還者数 未帰還者数
576,000 498,000 78,000
南樺太・千島、北方領土の一般邦人抑留者
抑留者数 帰還者数 未帰還者数
293,500 280,500 13,000
南樺太・千島、北方領土の「強制抑留者」
抑留者数 帰還者数 未帰還者数
10,000 8,000 2,000
《『戦後強制抑留史 第四巻』(平成17年3月 平和祈念事業特別基金)から》
<http://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8174689/www.heiwa.go.jp/yokuryu/>
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【在日外国人数】
終戦時における在日外国人数
T 終戦後、在日朝鮮人等の送還業務の基本数をとらえるため、それらの人々の登録が、昭和
21年2月17日にGHQにより指令され、2月18日に行われた。その結果の人数。
U そのうちの帰還希望者数。
V この登録時までにすでに送還されたもので、統計に上がっているものの人数。
W TとVの計。終戦時における在日の朝鮮人等の人員概数を推算する一応の基礎とすること
ができる。
T U V W
朝 鮮 人 647,006 (514,060) 914,352 1,561,358
(内北鮮 9,701)
中 国 人 14,941 ( 2,372) 41,110 56,051
台 湾 省民 15,906 ( 12,784) 18,462 34,368
南西諸島民 200,943 (141,377) 13,675 214,618
計 878,796 (670,593) 1,866,395
送出統計(昭和25年12月31日現在・厚生省)
国 籍 別 一般送出 強制送還
朝 鮮 人 1,014,541 37,215
中 国 人 43,736 66
台 湾 人 24,406 103
南西諸島民 180,016 249
ド イ ツ人 1,987 0
イタリア人 158 0
そ の 他 266 0
計 1,265,091 37,633
《「引揚げと援護三十年の歩み」(厚生省援護局編集 昭和53.4.5 ぎょうせい)
P151の文章と表を参考に作成しました。》
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【強制連行】
強制連行
アジア太平洋戦争時に日本政府が朝鮮人や中国人に強制した労務動員をさして、一般に使われる。戦時統制経済下で、政府は1939(昭和14)に労務動員実施計画綱領を作成し、不足する労働力を「移住朝鮮人」で補おうとする方針をたてた。この計画は'42 から国民動員実施計画と名前をかえ、敗戦の年まで続いた。はじめは、会社の「募集」方式の連行だったが、'42 からは朝鮮総督府が徴発業務を一元化する「官斡旋」方式となった。'44 国民徴用令が適用され、行政機構や警察権力を動員して強制的な「徴用」が始まった。連行先は日本国内だけでなく、樺太(サハリン)、東南アジア、太平洋の諸島と広範囲に及び、炭鉱・土木工事など、危険な重労働につかせられたため死傷・逃亡が多かった。朝鮮人の動員数は72万人とも 150万人ともいわれ、中国人は約4万人とみられている。このほか、軍要員として15万人が動員され、女子挺身隊の名のもとに数万人が「従軍慰安婦」として連行された。 《「角川日本史辞典」から》
関連:昭和14年度労務動員実施計画綱領(国立国会図書館リサーチ・ナビ)
<http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00207.php>
華人労務者内地移入ニ関スル件(国立国会図書館リサーチ・ナビ)
<http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00428.php>
国民徴用令(昭和14年勅令第451号)(国立公文書館デジタルアーカイブ)
<http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?REFCODE=A03022379800&IS_STYLE=default&image_num=9>
<http://hourei.ndl.go.jp/SearchSys/viewEnkaku.do?i=NtVeZXONPyNQa0pzM57AJQ%3d%3d>
朝鮮の民衆にとりわけ深刻な影響を及ぼしたのは、労働力不足を補うための人的資源の強制動員、いわゆる「強制連行」である。この労務動員は、三九年から始まる「募集」方式、四二年以降の「官斡旋」方式をへて段階的に強制性を増し、四四年九月以降は、…国民徴用令の朝鮮人への適用によって、完全な強制動員となった。日本に移送された朝鮮人労働者は、鉱山、土木工事、軍需産業などの労働現場に配置され、逃亡者が相つぐほどの過酷な労働条件の下で働かされた。朝鮮内でも重化学工業化が急速に進められていた北部のダム建設や工場建設などのために、多数の労働者が動員されている。三九年から四五年にかけて、強制動員された朝鮮人の数は、日本や満州・樺太・南方など朝鮮外に移送された者=八一〜九四万人、朝鮮内での強制労働従事者=三一九万人、合計で四〇〇〜四一三万人と推定されている(海野福寿「朝鮮の労務動員」)。《『アジア・太平洋戦争』(吉田裕著 2007.8.21発行 岩波新書)111頁から》
関連:日韓歴史共同研究報告書にある朝鮮人労務動員関係論文
「総力戦体制期の朝鮮半島に関する一考察 ―人的動員を中心にして―」(木村幹氏執筆)
<http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/07-0j_kimurakan_j.pdf>
「送出過程を中心に見た戦時体制期朝鮮人の国外労務動員の性格」(鄭惠瓊氏執筆の翻訳文)
<http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/3-11j.pdf>
「日本本土居住の朝鮮人の生活と「動員」」(河棕文氏執筆の翻訳文)
<http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/3-19j.pdf>
日韓歴史共同研究報告書 第1期報告書(2005年6月) 第2期報告書(2010年3月)(日韓歴史共同研究委員会,日韓文化交流基金HP)
<http://www.jkcf.or.jp/projects/kaigi/history/>
従軍慰安婦
日本軍が兵士の性欲処理のために開設した慰安所で働かされた女性、「軍隊慰安婦」のこと。日中戦争以降本格化し、占領地全域に送られた。多くは朝鮮人で、8万人とも20万人とも言われる。台湾人や占領地の女性もいた。《「角川日本史辞典」から》
女性のためのアジア平和国民基金
元従軍慰安婦に対する「見舞金」を募るために 1995年7月創設された民間基金。アジア諸国に対する戦時賠償問題は国家としてはすでに解決ずみであるというのが政府の立場だが、アジア諸国では、強制連行・労働問題とともに従軍慰安婦に対する補償を求める声が高まっていた。そこで政府が考え出した苦肉の策が民間基金という形であった。しかし、これでは国家が行うべき謝罪のあかしとしての個人補償とはならず、国家の責任を民間に押しつけるだけだとの批判が根強い。《「ブリタニカ国際大百科事典」から》
財団法人女性のためのアジア平和国民基金(じょせいのためのアジアへいわこくみんききん、略称:アジア女性基金、英:Asian Women's Fund)は、元「慰安婦」に対する補償(償い事業)、および女性の名誉と尊厳に関わる今日的な問題の解決を目的として設立された財団法人。日本政府からの出資金と国内外からの募金によって運営された。すべての償い事業が終了したため、2007年3月31日 をもって解散した。《ウィキペディアフリー百科事典から》
関連:国連強制失踪委員会 条約に基づき日本が提出した報告書に関する総括所見(2018.11.19)
同引用元(国連ウェブサイト:英語)<https://tbinternet.ohchr.org/Treaties/CED/Shared%20Documents/JPN/CED_C_JPN_CO_1_33067_E.pdf>
韓日 日本軍慰安婦被害者問題の合意(2015.12.28)検討結果報告書(2017.12.27)
同引用元(大韓民国外交部ウェブサイト:韓国語)<http://www.mofa.go.kr/www/brd/m_4076/view.do?seq=367886>
日韓両外相共同記者発表 平成27年12月28日 (外務省ホームページ)<http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/na/kr/page4_001664.html>
慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策(外務省ホームページ)<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/ianfu.html>
河野洋平内閣官房長官談話 平成5年8月4日 (外務省ホームページ)<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html>
慰安婦関連歴史資料(デジタル記念館慰安婦問題とアジア女性基金ホームページ)<http://www.awf.or.jp/6/document.html>
日本政府に対する国際社会の声(女たちの戦争と平和資料館ホームページ)<http://wam-peace.org/ianfu-mondai/intl/>
韓国挺身隊問題対策協議会戦争と女性の人権博物館<https://www.womenandwar.net/contents/home/home.nx>
米国下院2007年7月30日決議(従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議) (米国政府印刷局ウェブサイト:英語)
<http://www.gpo.gov/fdsys/pkg/BILLS-110hres121eh/pdf/BILLS-110hres121eh.pdf>
国連クマラスワミ報告書(1996.1.4)(国連ウェブサイト:英語)<http://www1.umn.edu/humanrts/commission/country52/53-add1.htm>
同報告邦訳 荒井信一氏訳及び解説(日本の戦争責任資料センターHP)<http://space.geocities.jp/japanwarres/center/library/cwara.HTM>
「クマラスワミ報告書」に対する日本政府の反論文書の要旨(産経新聞HP 2014.4.1配信)
<http://www.iza.ne.jp/kiji/politics/news/140401/plt14040109420006-n1.html>
中国人強制連行
「内地」への中国人強制連行
十五年戦争末期の「内地」の労働力不足を補うため、1942年11月27日に「華人労務者内地移入に関する件」を東条内閣が閣議決定し、敗戦までに3万8935人の中国人を強制連行した。
そして、鉱山・港湾・建設現場など35の企業の 135ヶ所の事業所で、劣悪な生活条件の下で過酷な労働を強制し、6830人もの死者を出した。
中国国内での中国人強制連行
「内地」より大規模な中国人強制連行が、「満州国」を含む中国国内で行なわれていた。死者数だけを見ても、阜薪炭鉱が7万人、北票炭鉱が3万人、大石橋マグネシウム鉱山が1万7000人、遼源炭鉱が8万人、大同炭鉱が6万人、弓長嶺鉄鉱が1万2000人であり、本渓炭鉱鉄鉱においては13万5000人、露天掘りで有名な撫順炭鉱では25万人にもなる。
1934年から1945年までに、中国華北地区など各地から、東北地区(満州国)に日本が連行した労工は790万人、東北地区内での割り当てや連行による労工が850万人、合計で1640万人もの中国人労工が連行された。 〈李秉剛氏(元遼寧政治経済学院教授)『私は地獄へ行ってきた』(遼寧大学出版社)〉
日本により労役を課せられた中国人労工とその家族は、華北地区で 960余万人に達し、そのうち3万8900名が日本(内地)に連行された。〈陶文サ氏(日中歴史共同研究/委員) (日中歴史共同研究の成果として、2010年1月 31日に発表された報告書。百万人単位の中国人強制連行が共同研究で確認された。)〉
1943年、中国東北部の鉱山・工場など14の強制労働現場の労工の死亡率は、労工が鉱山などに来て、最初の半月で 6.7%、1か月で20.6%、3か月で51.3%、半年で75.9%、1年で87.0%である。西安炭鉱では、労工は1年たらずでほぼ「消耗」した。〈『満州炭鉱資材読本別冊』(日満商事調査室発行) (「別冊」には、北票 炭鉱など14の炭鉱・工場等の労工の死亡率が克明に記録されている。)〉
中国の「万人坑」と中国人強制連行
日本が支配した「満州国」を含む中国各地の強制連行・強制労働の各々の現場で 多数の中国人労工が死亡し(殺され)、膨大な死者がまとめて埋められ、「万人坑」が作られた。そういう「万人坑」が中国各地に何十ヶ所もある。強制連行された中国人は全体で数百万人から1千万人もの規模になり、
死亡率の高さも「内地」とは比較にならない。
《青木茂氏(平和を考え行動する会)作成資料から》
関連:青木茂著『万人坑に向き合う日本人』<http://www.kadensha.net/books/2020/202011manninkounimukiaunihonjin.html>
青木茂著『華南と華中の万人坑-中国人強制連行・強制労働を知る旅-』
<http://www.kadensha.net/books/2019/201907kanantokahokunomanninkou.html>
青木茂著『華北の万人坑と中国人強制連行-日本の侵略加害の現場を訪ねる-』
<http://www.kadensha.net/books/2017/201708kahokunomanninkou.html>
青木茂著『日本の中国侵略の現場を歩く 撫順・南京・ソ満国境の旅』<http://kadensha.net/books/2015/201507chugokushinryaku.html>
青木茂著『万人坑を訪ねる─満州国の万人坑と中国人強制連行』<http://www.ryokufu.com/isbn978-4-8461-1323-0n.html>
青木茂著『偽満州国に日本侵略の跡を訪ねる』<http://eritokyo.jp/independent/bookreview-aokishigeru0001.html>
青木茂著『日本軍兵士・近藤一忘れえぬ戦争を生きる』<http://www.fubaisha.com/search.cgi?mode=close_up&isbn=0532-2>
日中歴史共同研究報告書(2010年1月31日発表)に記された「中国人強制連行」
…また、満洲や日本への労働力の提供のため、華北において強制的な労働力の動員が42年から実施され、その業務は日本軍と華北政務委員会の統制下にあった華北労工協会が一元的に請け負っていた。200万人を超える労働者が華北から満洲、蒙彊に提供された。44年以降は華北政務委員会が表面に乗り出し、重要労力緊急動員の秘密命のもとに日本軍が出動して「浮浪遊民」を逮捕徴発して日本や満洲に送り込んだ。日本全土への強制連行は43年 9月から試行的に始まり、45年 5月までに約 3万9000人の中国人が移送され、過酷な労働に従事し、秋田県の花岡鉱山事件のように中国人労働者の大規模な蜂起事件も起こっている。(各事業場の「華人労務者就労顛末報告書」に基づく研究として、西成田豊『中国人強制連行』(東京大学出版会 2002年)がある。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社 2000年207-10頁。花岡事件については西成田『中国人強制連行』、363-402頁を参照。)〈第2部第3章「日中戦争と太平洋戦争」(日本語論文)波多野澄雄氏執筆 6頁から〉
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf>
…占領地域では、労働資源も日本による経済略奪の重要な対象であった。日本軍による略奪、労働力の酷使には主に三種類あった。ひとつは戦争中に直接壮丁を拉致して労役に当たらせる、次に労働者協会あるいはその下部の事務所、県事務局を通じて農民を騙し、脅迫して中国東北部や日本に送り働かせる、そして農家各戸に毎年各種の労役を負担させるもので、例えば北平昌平県では平均で各戸が1年に「延べ 175回出夫」しなければならなかった。研究者の統計によると、わずかに華北地域だけでも、日本のために働いたもの、およびその家族の総数は960余万人に達し、うち 38900人余りの労働者が日本へ連れて行かれ働かされた。労働者たちの労働や生活条件は極めて劣悪で、多くの労働者が負傷し、障害が残ったり、あるいは死亡するものまであった。さらに多くの労働者たちが日本軍による秘密の軍事要塞建設にあたった後、残酷にも集団虐殺された。(『北平敵占区人民的生活負担』(1941−1945年)、強重華編、『抗日戦争時期重要資料統計集』、北京出版者 1997年、326頁。『歴年華北“強制労働”及家属掠往日本“満洲”蒙疆華中人数統計表』、居之芬、張利民主編、『日本在華北経済統制掠奪史』、420頁。日本の対中国経済略奪に関する部分は南京師範大学の張連紅教授執筆の原稿による。)〈第2部第3章「日中戦争と太平洋戦争」(中国語論文)陶文サ氏執筆の翻訳文14頁から〉
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_c_translate.pdf>
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html>
《外務省ホームページから》
関連:強制連行や労務動員の話題が含まれる国会会議録を探してみました。(国会会議録検索システムより)
昭和29年8月16日第019回国会参議院厚生委員会小委員会<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/019/0860/01908160860001a.html>
昭和39年6月 2日第046回国会衆議院内閣委員会<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0388/04606020388039c.html>
昭和57年7月30日第096回国会衆議院外務委員会<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/096/0110/09607300110023c.html>
平成 2年6月20日第118回国会衆議院法務委員会<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/118/0080/11806200080010c.html>
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【七三一部隊】
七三一部隊
日本陸軍の細菌戦部隊。関東軍防疫給水部の秘匿名。1932年関東軍防疫班として発足。中国人政治犯など約3000名を人体実験に使い細菌兵器を開発、40年以後中国戦線でペスト菌などの細菌戦を実施した。開発した生物兵器と人体実験の情報は、戦後アメリカに受け継がれた。(山田朗)《「角川世界史辞典」から》
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【留用された日本人】
留用された日本人
…戦後、中華人民共和国建国のために働いた日本人がいた。鉄道や製鉄所の技師として、従軍医師や看護婦として、空軍創設の教官として、好むと好まざるとにかかわらず協力を要請され、革命に参加しなければならなかった。
…さまざまな技術を持った日本人が「留用」され、国共内戦を後方から支えていたのである。…その数は約一万人と推定されており、家族を含めると、およそ二万人の「留用」関係者が旧満州(中国・東北地方)に残されたことになる。《『「留用」された日本人―私たちは中国建国を支えた』(日本放送出版協会、2003年)36頁から》
関連:NHKハイビジョン特集「"留用"された日本人-日中知られざる戦後史」2002-9-29放送
…敗戦後、日本軍人・民間人の引揚が相次いで行われていったが、その一方で、一部の軍人が国民政府側に協力する形で中国に残留したのである。さらに、最近の研究では戦後、日本の技術者、教育者、医療関係者、行政官僚、貿易関係者等、数多くの民間人が国民政府(共産党支配地域においても同様)にほぼ半強制的に徴用・留用され、経済、社会各分野の接収・復興に協力していたことが明らかにされつつある。(鹿錫俊「東北解放軍医療隊で活躍した日本人―ある軍医院の軌跡から」『北東アジア研究』2004年1月。松本俊郎『清洲国から新中国へ―鞍山鉄鋼業からみた中国東北の再編過程1940〜1952年―』名古屋大学出版会、2000年。NHK「留用された日本人」取材班『「留用」された日本人―私たちは中国建国を支えた』日本放送出版協会、2003年。)《「日本軍の山西残留に見る戦後初期中日関係の形成」(張宏波著、一橋論叢,134(2):187-20、2005-08-01)から》
<http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15542/1/ronso1340201250.pdf>
…国共両軍は日本がポツダム宣言の受諾の意思を表明した直後の 8月10日から、争って日本軍の接収に乗り出す。延安総司令朱徳は、解放区の全部隊に日本軍と傀儡軍の武装解放を命じ、各地の部隊に降伏受入のための進軍を指令した。一方、蒋介石は11日、日本軍に対して、しばらく武器と装備を維持し、治安維持と交通確保にあたり、中国陸軍総司令何応欽の命令を待つよう訴えた。また、蒋介石は、抗日戦勝利のラジオ演説のなかで、「暴を以て暴に報ゆる勿れ」と述べ、軍閥の戦争責任は追及されねばならないが、日本人民に報復や侮辱を加えてはならないと訓告した。
こうした対日宥和的な態度に期待する日本政府は、8月16日、「日支間の行懸りを一掃し、極力支那を支援強化し以て将来に於ける帝国の飛躍と東亜の復興に資す」ため、事業者、技術者及び企業の残留を奨励し、「誠意を以て支那の復興建設に協力し日支の提携を促進する」ことを決定した。8月21日、これを重光外相名で現地公館に伝えている*。この指示の効果は不明であるが、中国にとどまって技術支援や復興支援にあたろうとする数千の日本人が残留(留用)したことは事実である。(*江藤淳編『占領史録(上)』講談社学術文庫、1995年、524−31頁。)〈日中歴史共同研究報告書(2010年1月31日発表) 第2部第3章「日中戦争と太平洋戦争」(日本語論文)波多野澄雄氏執筆17頁から〉《外務省ホームページから》
…終戦後相次いで旧満州に進駐した国民政府軍及び中国共産党軍は、ともにその戦力の強化を図るため、多数の日本人を留用した。…昭和24年10月、中華人民共和国が樹立された。国民政府軍に留用されていた日本人は同軍の敗退に伴い、その大部分は順次留用を解除され帰国したが、中国共産党軍に留用されていた者は新政権樹立後も引き続いて留用され、その数は家族を含め3万5,000人は下らないと推定されていた。…《『援護五十年史』(厚生省社会・援護局 援護五十年史編集委員会監修 平成9年3月 ぎょうせい発行)45頁から》
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【山西省残留日本兵】
山西省残留日本兵
終戦に伴い、中国の山西省に駐屯していた支那派遣軍北支那方面軍第一軍(司令官澄田睞四郎中将、兵力約5万9千)は、山西軍(第二戦区司令長官閻錫山が指揮していた中国国民党軍)に対し降伏の手続きをとるよう支那派遣軍総司令官からの命令を受けた。それに対して、山西軍は、日本軍の援助がなければ当時急速に勢力を拡大させていた中共軍に敗れる恐れがあったので、それに抗するために(全将兵の完全な内地帰還の方針や中国国民政府による日本人の徴用禁止の命令があるにもかかわらず)、「第一軍の将兵のうち1万人を山西に残留させなければ、山西にある日本軍民の内地帰還は実現しない」と宣伝する等して、日本兵の残留工作を行った。これを発端とする様々な経過があったが、最終的に2, 563名の将兵が残留した(なお、これらの者のうち、約1, 600名は、昭和22年、23年に帰国した)。
第一軍は、山西省に残留した将兵に対して、陸軍部隊の復員に関する規定に従い、現地除隊(召集解除、解雇)の処置をとった。
在留邦人(家庭が現地にある等の事情で終戦直後現地除隊した現地応召の元軍人を含む)も、相当数の者が応募して山西軍の鉄路護路隊に入隊した。(終戦当時、中国山西省には在留日本民間人約4万7千人がいた*)
これらの残留者は、当初山西軍の特務団に編入されたが、特務団は21年の9月頃第十総隊に改編され、先に編成していた鉄路護路隊もこれに吸収された。
これらの人々は、山西省に留まり、昭和21年7月から9月に至る大同攻防戦、昭和23年6月から8月に至る晋中作戦(麦の収穫援護のため太原の南方太谷附近に進出した山西軍と中共軍との戦闘)及び昭和23年10月から昭和24年4月に至る太原攻防戦に参加し、約400名(邦人を含む)の戦死者を出し、700名以上が中共軍の捕虜となり、抑留された。
これら抑留された人々は、昭和28年から昭和31年9月までの15回の帰還により、692名が帰国したが、これらのうちには、国共戦闘または抑留の間に受傷、罹病した相当数の傷病者もあった。
《以上は、厚生省引揚援護局未帰還調査部が 1956年(昭和31年)12月3日に調製した「山西軍参加者の行動の概況について」の文面、その他* を参考にして作成しました。》
参考<http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000193.html>
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/025/0012/02512030012004c.html>
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/120/1020/12003261020003c.html>
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/126/1020/12603291020003c.html>
* <http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15542/1/ronso1340201250.pdf>
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【中国残留婦人・残留孤児】
中国残留婦人、残留孤児
…終戦直後の旧満州の混乱の中で、肉親等と死別又は生別した日本人婦女子のうち自活の手段を失いやむなく現地住民に救いを求め、あるいは拉致された後その妻となった者は、約4,000人と推定され、また、両親を失った孤児及び親等が養育できないため現地住民に託した子供等は、約2,500人と推定される。これらの中国人の妻となり、また孤児として現地住民の家族に入った者は、次第に現地住民の生活に同化して残留することとなった。《『援護五十年史』(厚生省社会・援護局 援護五十年史編集委員会監修 平成9年3月 ぎょうせい発行)46頁から》
昭和47年の日中国交正常化以後、中国残留邦人の身元調査、帰国事業が本格的に進められ、数多くの中国残留邦人が本邦への永住帰国を果たしている。日中国交正常化後に国費により永住帰国した中国残留邦人の数は、6,343人(同伴家族を含めた人数は、20,293人)となっている。《中国残留邦人への支援に関する有識者会議H19.5.17資料から》
<http://www.mhlw.go.jp/shingi/2007/05/s0517-3c.html>
中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6年4月6日法律第30号)
→中国残留邦人等に対する新たな支援策(平成20年4月より)
→老齢基礎年金の満額支給 老齢基礎年金を補完する支援給付 地域社会における生活支援
中国残留邦人等に対する支援給付制度… 平成22年11月末現在で被支援世帯数は4,741世帯(福祉行政報告例)となっている。《厚生労働省社会・援護局(援護) 社会・援護局関係主管課長会議資料 H23.3.3 から》
関連:社会・援護局関係主管課長会議資料(援護/H23.3.3)
<http://www.wam.go.jp/wamappl/bb16GS70.nsf/0/5d9c6730979c59604925784800230960/$FILE/20110303_2shiryou6.pdf>
社会・援護局関係主管課長会議資料(援護/H24.3.1)
<http://www.mhlw.go.jp/topics/2012/03/dl/tp0314-01_52.pdf>
社会・援護局関係主管課長会議資料(援護/H25.3.11)
<http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/topics/dl/tp130315-01-07.pdf>
社会・援護局関係主管課長会議資料(援護/H26.3.3)
<http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12000000-Shakaiengokyoku-Shakai/0000038586.pdf>
社会・援護局関係主管課長会議資料(援護/H27.3.9)
<http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12000000-Shakaiengokyoku-Shakai/0000077368.pdf>
社会・援護局関係主管課長会議資料(援護/H28.3.3)
<http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12201000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu-Kikakuka/0000114269.pdf>
関連:フィリピン残留日本人(NPO法人フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)ホームページ)
<http://pnlsc.com/nikkeijin/index.html>
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【日系人強制収容】
日系人強制収容
第二次世界大戦中、 12万313人の日系アメリカ人がアメリカ政府によって強制収容所に送られた。かれらの大半は戦時転住局が管理する10ヶ所の強制収容所に入れられ、のこりの人々は司法省やそのほかの政府機関が管理する収容所や拘置所に入れられた。
日米開戦の翌年1942年に、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域にすむ日系アメリカ人たちは、その7割がアメリカ生まれの二世で市民権を持っていたにもかかわらず、強制的に立ち退きを命ぜられた。なんの補償も得られないまま、かれらは家や会社を安値で売り渡さなければならず、中にはすべての財産を失ってしまった人もいた。
1988年8月10日、レーガン大統領は「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」に署名し、アメリカ政府は初めて公式に日系アメリカ人に謝罪し、署名した日に生存している被強制収容者全員に対してそれぞれ2万ドルの補償金を支払った。同時に、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、日系アメリカ人の強制収容所体験を全米の学校で教えるため、12億5,000万ドルの教育基金が設立された。《全米日系人博物館/ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター ウェブサイトから 》 <http://www.janm.org/jpn/nrc_jp/index_jp.html>
関連:大統領令9066号(1942年)、1988年市民の自由法、ブッシュ大統領の手紙(1991年) (Children of the Camps HP:英語)
<http://www.pbs.org/childofcamp/history/documents.html>
米国上院2003年4月10日の決議(大戦中の日系人抑留等に関する決議) (GovTrack.usウェブサイト:英語)
<http://www.govtrack.us/congress/bills/108/sres118/text>
米国下院2007年2月13日の決議(大統領令9066号65周年) (GovTrack.usウェブサイト:英語)
<http://www.govtrack.us/congress/bills/110/hres122/text>
1942年、カナダに戦時措置法が成立し、ブリティッシュ・コロンビア州の太平洋沿岸地帯在住の2万人余りの日系人は、財産を没収された上、中西部やオンタリオ州に強制移住させられた。戦後、日系カナダ人全国協会(NAJC)は、補償問題をめぐり長年にわたりカナダ政府と交渉を続けてきた。
88年、マルルーニー首相は、強制移住させられた日系人に対して下院において公式に謝罪し、生存者約 1万2000人に各 2万1100カナダ・ドルずつ補償すると発表した。同時に日系人の社会・文化活動に1220万カナダ・ドル、多民族財団の設立に2440万カナダ・ドル支給することも明らかにされた。《「ブリタニカ国際大百科事典」から》
関連:第二次世界大戦中の体験(日系カナダ人全国協会(NAJC)ウェブサイト)
<http://www.najc.ca/thenandnow/jp/experience.php>
太平洋戦争中、アメリカ、カナダだけでなく、オーストラリアでも日系人の強制収容はあった。その数、約4300人。さらに、ドイツ・イタリア系は、戦後もオーストラリア社会に受け入れられたが、日系人のほとんどが敗戦後日本に強制送還された。《永田由利子著『オーストラリア日系人強制収容の記録』(2002年12月 高文研 発行)から》
<http://www.koubunken.co.jp/0300/0294.html>
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【賠償・戦後処理】
日本国による賠償並びに戦後処理の一環としてなされた経済協力及び支払い等
1.賠償 (計 10億1208万ドル :3643億4880万円)
(1)サンフランシスコ平和条約第14条(a)1に基づくもの(フィリピン:5億5000万ドル、 ベトナム:3900万ドル)
(2)個別の平和条約に基づくもの(ビルマ:2億ドル、 インドネシア:2億2308万ドル)
2.中間賠償 (計 4524万8997ドル : 1億6515万8839円)
(*1939年の評価額。1ドル=3.65円)
3.在外財産の放棄 (計236億8100万ドル :3794億9900万円)
(1945年8月15日時点。GHQ覚書に基づき外務・大蔵両省の共管で設置された在外資産調査会の評価による。)
(サンフランシスコ平和条約第14条(a)2に基づくもの)
4.戦後処理の一環として締結された経済技術協力協定等に基づく経済協力等
(計 7億 539万3622.41ドル:2539億4170万5380円)
(1)賠償請求権を放棄した国に対して行われた経済協力(ラオス:278万ドル、カンボジア:417万ドル、
マレーシア:817万ドル、シンガポール:817万ドル)
(2)分離地域に対する経済協力等(韓国:3億ドル、ミクロネシア:500万ドル)
(3)その他各国に対する経済協力等(タイ:1500万ドル+2667万ドル、フランス:417万ドル+48万ドル、
インドネシア:1億7691万ドル、ビルマ:1億4000万ドル、モンゴル:1389万ドル)
5.捕虜に対する償い (計 1261万4125ドル : 45億4108万5000円)
(サンフランシスコ平和条約第16条に基づくもの)
6.私的請求権問題等の解決のための支払い(計 2383万7261ドル : 85億8141万4246円)
(1)連合国に対する支払い(オランダ:1000万ドル+28万ドル)
(2)旧枢軸国に対する支払い(イタリア:120万ドル)
(3)その他各国に対する支払い(スイス:286万ドル+57万ドル、スペイン:550万ドル、
スウェーデン:140万ドル、デンマーク:84万ドル+118万ドル、オーストリア:1万6700ドル)
7.戦前債務の支払い (計 187万4263ドル : 6億7473万4680円)
(サンフランシスコ平和条約第18条又は個別の平和条約に基づくもの)
(イギリス:140万ドル、カナダ:1万7500ドル、インド:2万5000ドル、ギリシャ:16万1763ドル、アルゼンチン:27万ドル)
8.戦後処理の一環として締結された経済開発借款取極等に基づく借款
(計 9億4660万ドル :3407億7600万円)
(ビルマ:5000万ドル+3000万ドル、フィリピン:2億5000万ドル、
インドネシア:4億ドル、ベトナム:750万ドル+910万ドル、韓国:2億ドル)
(注)換算レートは、1ドル=360円(*を除く。)
《外務省ホームページ「賠償並びに戦後処理の一環としてなされた経済協力及び支払い等」
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/page22_002287.html>を基に作成しました》
関連:サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)1951.9.8 (東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室ホームページ)
<http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html> T1J→T1Eで英文
対日講和条約草案に対するソ連修正提議 1951.9.5 (東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室ホームページ)
<http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19510905.O1J.html>
対日講和問題に関する周恩来中国外相の声明 1951.8.15 (東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室ホームページ)
<http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19510815.O1J.html>
平和条約の締結に関する調書(外務省ホームページ 日本外交文書デジタルアーカイブ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-1.html>
1947年9月、米国による沖縄の軍事占領に関して、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に
伝えられた天皇の見解をまとめたメモ(天皇メッセージ)(沖縄県公文書館ホームページ)
<http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html>
日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約 1951年9月8日署名 サンフランシスコ市 1960.6.23失効 (外務省HP条約データ検索)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(3)-240.pdf>
日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 1960年1月19日署名 ワシントン (外務省HP条約データ検索)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(3)-237.pdf>
日米地位協定 1960年1月19日署名 ワシントン,1960年6月23日効力発生 (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/kyoutei/index.html>
機密文書「地位協定の考え方」(琉球新報に2004年7月〜8月に掲載されたものから)(E-wave Tokyo ホームページ)
<http://eritokyo.jp/independent/nagano-pref/kimitsubunsho-l01.html>
「秘 無期限」と記された「日米地位協定の考え方」と題する政府文書の存在と公開に関する質問主意書(衆議院ホームページ)
<http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a159001.htm>
「日米地位協定の考え方」増補版を公開できない理由等に関する質問主意書(参議院ホームページ)
<http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/159/meisai/m159003.htm>
日米防衛協力のための指針(The Guidelines for Japan-U.S. Defense Cooperation)(防衛省ホームページ)
<http://www.mod.go.jp/j/approach/anpo/shishin/>
核兵器不拡散条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons:NPT) 1970.2.3 日本国署名 (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/npt/>
日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言 1956年10月19日 モスクワ (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1957/s32-shiryou-001.htm>
日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 1972年9月29日 北京 (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html>
日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約 北京 1978年8月12日署名,1978年10月23日効力発生 (外務省HP条約データ検索)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S53-323.pdf>
平和と発展のための友好協力パートナーシップの構築に関する日中共同宣言 1998年11月30日 東京 (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_sengen.html>
日本国と中華民国との間の平和条約 台北 1952年4月28日署名,1952年8月5日効力発生 (外務省HP条約データ検索)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(1)-052_1.pdf>
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S38(1)-052_2.pdf>
日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 東京 1965年6月22日署名,1965年12月18日効力発生 (外務省HP条約データ検索)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S40-237.pdf>
財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定 1965.6.22 (外務省HP条約データ検索)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S40-293_1.pdf>
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S40-293_2.pdf>
日韓共同宣言 1998年10月8日 東京 (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/yojin/arc_98/k_sengen.html>
日朝関係に関する日本の自由民主党、日本社会党、朝鮮労働党の共同宣言 1990年9月28日 平壌 (田中明彦研究室ホームページ)
<http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19900928.D1J.html>
日朝平壌宣言 2002年9月17日 平壌 (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/n_korea_02/sengen.html>
日本の戦後補償条約一覧(ウィキペディアフリー百科事典)
<http://p.tl/BA8P>
「終戦の詔書」 1945年8月14日 (国立国会図書館HP)<http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/017shoshi.html>
「日本国憲法」 S21.11.3公布 S22.5.3施行 (国立国会図書館HP)<http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j01.html>
「国連憲章 Charter of the United Nations」 1945.6.26調印 於:サンフランシスコ 1945.10.24発効 (国連ウェブサイト:英語)
<https://www.un.org/en/documents/charter/>
(上記邦訳、※国際連合広報センターHP)<http://www.unic.or.jp/info/un/charter/text_japanese/>
「世界人権宣言 Universal Declaration of Human Rights」 1948.12.10採択 (国連ウェブサイト:英語)
<http://www.un.org/en/documents/udhr/>
(上記邦訳、※同)<http://www.unic.or.jp/activities/humanrights/document/bill_of_rights/universal_declaration/>
近衛文麿の上奏文(1945.2.14)
帝国議会に対する終戦経緯報告書(1945.9.4 外務省)
戦争責任等に関する件(1945.11.5 幣原内閣閣議決定)
あたらしい憲法のはなし(1947.8.2 文部省)
欧州旧枢軸国各国との平和条約等
Defeat of Germany: assumption of supreme authority by Allied Powers ベルリン宣言 1945.6.5
ドイツの敗北とその最高権力を連合国が掌握するという連合国軍の宣言 (米国議会図書館ウェブサイト:英語)
<http://www.loc.gov/law/help/us-treaties/bevans/m-ust000003-1140.pdf>
Treaty of peace with Italy イタリアとの平和条約 1947.2.10 パリ (米国議会図書館ウェブサイト:英語)
<http://www.loc.gov/law/help/us-treaties/bevans/m-ust000004-0311.pdf>
Treaty of peace with Romania ルーマニアとの平和条約 1947.2.10 パリ (英国条約オンラインデータベース ウェブサイト:英語)
<http://treaties.fco.gov.uk/docs/pdf/1948/TS0055.pdf>
Treaty of peace with Bulgaria ブルガリアとの平和条約 1947.2.10 パリ (英国条約オンラインデータベース ウェブサイト:英語)
<http://treaties.fco.gov.uk/docs/pdf/1948/TS0052.pdf>
Treaty of peace with Hungary ハンガリーとの平和条約 1947.2.10 パリ (英国条約オンラインデータベース ウェブサイト:英語)
<http://treaties.fco.gov.uk/docs/pdf/1948/TS0054.pdf>
Treaty of peace with Finland フィンランドとの平和条約 1947.2.10 パリ (英国条約オンラインデータベース ウェブサイト:英語)
<http://treaties.fco.gov.uk/docs/pdf/1948/TS0053.pdf>
Treaty on the Final Settlement with Respect to Germany ドイツ最終規定条約 2+4条約
署名 1990.9.12 モスクワ 効力発生 1991.3.15 (在独米国外交使節団ウェブサイト:英語)
<http://usa.usembassy.de/etexts/2plusfour8994e.htm>
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【軍人恩給】
平成十九年度予算における恩給の受給者数
全対象者百五万六千人の内、旧軍人恩給対象者が百三万人
旧軍人恩給 対象者 受 給 者 数 平均年額
本 人 二十四万四千人(23.7%) 約七十九万円
遺 族 七十八万六千人(76.3%) 八十五万円
恩 給 の 種 類 対 象 者 受給者数 平均年額
公務扶助料 戦没者の遺族 約十万人 約百九十七万円
戦争で傷病を負われた方々で
増加恩給 比較的重症の方 約一万人 約三百三十四万円
増加非公死扶助料 上者の死後その遺族が受給 約二万人 約百五十六万円
傷病年金 比較的軽症の方 約二万人 約五十万円
傷病者遺族特別年金 その遺族 約二万人 約五十万円
普通恩給 必要在職年を満たした後退職 約二十二万人 六十五万円
普通扶助料 その遺族 約六十三万人 約六十一万円
受給者の平均年齢、全体で平均八十四・九歳、公務扶助料八十八・三歳
恩給受給者数が最も多かったのは一九六九年(昭和四十四年)の二百八十二万人
旧軍人遺族等の恩給が一九五三年に復活して、昭和二十八年度から平成十九年度までの予算を
積み上げると、約四十七兆円(現在の物価に当てはめると六十兆五千億円)になる
平成十九年度予算における恩給費の総額は八千七百十五億円(一般会計予算の1.1%を占める)
《国会会議録検索システム「参議院会議録情報」から、
第166回国会 総務委員会 第7号 平成19年3月29日(木曜日)の議事録を基に作成しました。》
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/166/0002/16603290002007a.html>
関連:恩給制度の概要(総務省ホームページ)
<http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/onkyu_toukatsu/onkyu.htm>
戦没者遺族等への援護(厚生労働省ホームページ)
<http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/>
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【一般市民の戦争被害に対する補償】
一般市民の戦争被害に対する補償
…わが国では、戦争被害の補償は軍人・軍属や国・軍の役務を遂行していた場合に限定され、空襲被害など一般市民の戦争被害に対する補償は、原爆被爆者の補償や外地からの引揚げに関連する救済(引揚給付金、未帰還者留守家族への帰国旅費・帰国手当、シベリア抑留による被害や在外財産の損失補償に代わる給付、中国残留孤児への援助)を除き、行われてこなかった。…
…我が国の政府は、戦前から今日まで、一般市民の戦争被害は国家補償の対象とならない、という立場を堅持している。…
…太平洋戦争開戦時から想定された、軍人・軍属以外の国民の戦災被害については、各種の特別立法により個別に対策が採られていたが、それらの適用を受けない国民の戦災被害の一般的な保護を行うため、「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が制定された。…
…戦時災害保護法は、昭和21年9月の「生活保護法」(昭和21年法律第17号)の制定時に、軍事扶助法、救護法、母子保護法、医療保護法とともに廃止された。その理由は、GHQの日本社会の「非軍国主義化」政策と社会保障における「無差別救済の原則」に基づき、軍人を含む引揚者の応急の援助を除き、軍人恩給等の旧軍人に対する特別の援護が停止され、かつ、生活困難な国民全部を対象とする最低生活の保障をめざしたためであった。…
…「武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(事態対処法)」(平成15年法律第79号) 及び「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律(国民保護法)」(平成16年法律第112号)等の制定により、外部からの武力攻撃等、国や国民の平和と安全にとって重大な事態に対処するための法制(「有事法制」)が整った。それぞれの法律においては、国民の協力が求められており、平成16年からは、武力攻撃災害による損害の補償制度が発足している。この場合でも、その対象は、国や地方自治体の要請によりその措置に協力したものに限られており、武力攻撃そのものによる損害の補償については明文の規定がない。…
《「-資料-戦後処理の残された課題-日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償-」
(社会労働調査室 宍戸伴久著 国立国会図書館調査及び立法考査局「レファレンス」平成20年12月号)
<http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200812_695/069506.pdf>から》
関連:昭和48年7月3日第071回国会参議院社会労働委員会<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/071/1200/07107031200016c.html>
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【村山内閣総理大臣談話ほか】
村山内閣総理大臣談話
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」平成7年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
Statement by Prime Minister Tomiichi Murayama
"On the occasion of the 50th anniversary of the war's end"
(15 August 1995)
The world has seen fifty years elapse since the war came to an end. Now, when I remember the many people both at home and abroad who fell victim to war, my heart is overwhelmed by a flood of emotions.
The peace and prosperity of today were built as Japan overcame great difficulty to arise from a devastated land after defeat in the war. That achievement is something of which we are proud, and let me herein express my heartfelt admiration for the wisdom and untiring effort of each and every one of our citizens. Let me also express once again my profound gratitude for the indispensable support and assistance extended to Japan by the countries of the world, beginning with the United States of America. I am also delighted that we have been able to build the friendly relations which we enjoy today with the neighboring countries of the Asia-Pacific region, the United States and the countries of Europe.
Now that Japan has come to enjoy peace and abundance, we tend to overlook the pricelessness and blessings of peace. Our task is to convey to younger generations the horrors of war, so that we never repeat the errors in our history. I believe that, as we join hands, especially with the peoples of neighboring countries, to ensure true peace in the Asia-Pacific region -indeed, in the entire world- it is necessary, more than anything else, that we foster relations with all countries based on deep understanding and trust. Guided by this conviction, the Government has launched the Peace, Friendship and Exchange Initiative, which consists of two parts promoting: support for historical research into relations in the modern era between Japan and the neighboring countries of Asia and elsewhere; and rapid expansion of exchanges with those countries. Furthermore, I will continue in all sincerity to do my utmost in efforts being made on the issues arisen from the war, in order to further strengthen the relations of trust between Japan and those countries.
Now, upon this historic occasion of the 50th anniversary of the war's end, we should bear in mind that we must look into the past to learn from the lessons of history, and ensure that we do not stray from the path to the peace and prosperity of human society in the future.
During a certain period in the not too distant past, Japan, following a mistaken national policy, advanced along the road to war, only to ensnare the Japanese people in a fateful crisis, and, through its colonial rule and aggression, caused tremendous damage and suffering to the people of many countries, particularly to those of Asian nations. In the hope that no such mistake be made in the future, I regard, in a spirit of humility, these irrefutable facts of history, and express here once again my feelings of deep remorse and state my heartfelt apology. Allow me also to express my feelings of profound mourning for all victims, both at home and abroad, of that history.
Building from our deep remorse on this occasion of the 50th anniversary of the end of the war, Japan must eliminate self-righteous nationalism, promote international coordination as a responsible member of the international community and, thereby, advance the principles of peace and democracy. At the same time, as the only country to have experienced the devastation of atomic bombing, Japan, with a view to the ultimate elimination of nuclear weapons, must actively strive to further global disarmament in areas such as the strengthening of the nuclear non-proliferation regime. It is my conviction that in this way alone can Japan atone for its past and lay to rest the spirits of those who perished.
It is said that one can rely on good faith. And so, at this time of remembrance, I declare to the people of Japan and abroad my intention to make good faith the foundation of our Government policy, and this is my vow.
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html> 《外務省ホームページから》
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関連:平成27年8月14日内閣総理大臣談話 (首相官邸ホームページ)…戦後70年談話 閣議決定、pdf 英文あり
<https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10992693/www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html>
日本の外交政策―歴史関連 (外務省ホームページ)…日本政府の歴史認識や諸施策等
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/a_o/rp/page23_000874.html>
ダグラス・マッカーサー将軍:連邦議会での離任演説 1951年4月19日 (アメリカンセンターJAPANホームページ)
<http://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2378/>
サンフランシスコ平和会議での米大統領、米・英・ソ・埃・日各全権演説(資料沖縄問題/岡倉古志郎外編/労働旬報社 1969//旬報社デジタルライブラリー)
<http://www.junposha.com/library/pdf/60008_12.pdf>
サンフランシスコ平和会議でのセイロン代表ジャエワルデーネ氏の演説 1951.9.6 外務省議事録より
サンフランシスコ平和会議でのインドネシア代表アーマド・スバルジョ氏の演説 1951.9.7 外務省議事録より
サンフランシスコ平和会議でのフィリピン代表ロムロ将軍の演説 1951.9.7 外務省議事録より
(「平和条約の締結に関する調書Z」U桑港編に参考になる記述があります。)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html>
国際連合第11総会における重光葵外務大臣の演説(日本国の国際連合加盟に際しての決意表明) 1956.12.18 (外務省ホームページ)
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html>
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー ドイツ連邦共和国大統領 1985年5月8日の連邦議会での演説「荒れ野の40年」(ドイツ語、※)
<http://www.bundespraesident.de/SharedDocs/Reden/DE/Richard-von-Weizsaecker/Reden/1985/05/19850508_Rede.html>
上記邦訳「ヴァイツゼッカー大統領演説集」(永井清彦編訳/岩波書店)からの引用(名古屋市立大学ホームページ内別所良美氏ページ)
<http://www.hum.nagoya-cu.ac.jp/~bessho/Vorlesungen/Weizsaecker1985Rede.htm>
ホルスト・ケーラー ドイツ連邦共和国大統領 2005年5月8日の連邦議会での演説 (※ドイツ連邦共和国大統領府HP:ドイツ語)
<http://www.bundespraesident.de/SharedDocs/Reden/DE/Horst-Koehler/Reden/2005/05/20050508_Rede.html>
ゲアハルト・シュレーダー ドイツ連邦共和国首相 2005.1.25演説「アウシュヴィッツ強制収収容所解放60周年にあたって」(梶村太一郎氏訳)
<http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/7e68cff494354aaf60e7afe76cdde3c2>
盧武鉉韓国大統領の三・一節記念演説 2005.3.1「日本の知性にもう一度訴える」(駐日本国大韓民国大使館HP)
<http://jpn-tokyo.mofat.go.kr/webmodule/htsboard/template/read/legengreadboard.jsp?typeID=16&boardid=7857&seqno=612024&c=>
<http://jpn-tokyo.mofa.go.kr/worldlanguage/asia/jpn-tokyo/bilateral/download/index.jsp> (検索→DATE 2005.5.14)
江沢民中華人民共和国主席 1998.11.28 早稲田大学での演説「歴史を鏡として、未来を切り開こう」
<http://www.waseda.jp/jp/news98/981128k.html>
(上記原文:中国語、中華人民共和国駐日本国大使館HP) <http://www.china-embassy.or.jp/chn//xnyfgk/t62648.htm>
教皇ヨハネ・パウロ二世:ヨーロッパにおける第二次世界大戦終結50周年にあたってのメッセージ 1995年5月8日 (ヨハネ・パウロ2世HP)
<http://w2.vatican.va/content/john-paul-ii/it/messages/pont_messages/1995.index.html>
(上記邦訳、カトリック中央協議会HP、裏辻洋二氏訳) <http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/etc/ww2.htm>
第二次世界大戦勃発70年、ロシア、ドイツ、ポーランド各国首脳による演説 2009.9.1 グダニスク (岡野詩子氏訳/Forum Polska)
<http://www.forumpoland.org/db/okano09.pdf>
「ラッセル・アインシュタイン宣言」 (The Russell-Einstein Manifesto) 1955年7月9日 ロンドン (パグウォッシュ会議ウェブサイト:英語)
<http://pugwash.org/1955/07/09/statement-manifesto/#more-1784>
(上記邦訳、日本パグウォッシュ会議HP) <http://www.pugwashjapan.jp/#!blank-6/xeokh>
トルーマン米大統領の降伏調印式直後のラジオ演説 1945年9月1日 (ハリー・S・トルーマン図書館・博物館ウェブサイト:英語)
<http://www.trumanlibrary.org/publicpapers/index.php?pid=129&st=&st1=>
ウィンストン・チャーチル 「鉄のカーテン演説」 1946.3.5 ミズーリ州フルトン ウェストミンスター大学 ("The History Guide"ウェブサイト:英語)
<http://www.historyguide.org/europe/churchill.html>
ケネディ米大統領のアメリカン大学卒業式での演説 1963年6月10日 (ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館ウェブサイト:英語)
<http://www.jfklibrary.org/Asset-Viewer/BWC7I4C9QUmLG9J6I8oy8w.aspx>
<http://www.jfklibrary.org/JFK/~/link.aspx?_id=D6B0660281E4407E91B1E8FBD57A13C0&_z=z> 〔日本語訳あり〕
ケネディ米大統領の西ベルリンでの演説 1963年6月26日 (ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館ウェブサイト:英語)
<http://www.jfklibrary.org/Asset-Viewer/oEX2uqSQGEGIdTYgd_JL_Q.aspx>
マルタ会談 ブッシュ―ゴルバチョフQ&Aセッション録 (冷戦終結宣言) 1989.12.3 (米国ジョージメイソン大学 Roy Rosenzweig Center ウェブサイト:英語)
<https://chnm.gmu.edu/1989/archive/files/bush-interview-12-3-89_43aefd5a82.pdf>
ブッシュ米大統領の第二次世界大戦終結60周年式典に際しての声明書(Proclamation) 2005.5.3 (ジョージブッシュホワイトハウスアーカイブHP:英語)
<http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2005/05/20050503-5.html>
太平洋戦争終結60周年に際しての米国議会決議 2005年7月14日 (GovTrack.usウェブサイト:英語)
<http://www.govtrack.us/congress/bills/109/hconres191/text>
バラク・オバマ米大統領のフラチャニ広場(プラハ)での演説 2009年4月5日 (ホワイトハウス ウェブサイト:英語)
<http://www.whitehouse.gov/the_press_office/Remarks-By-President-Barack-Obama-In-Prague-As-Delivered>
(上記邦訳、在日米国大使館HP) <http://real-apple.sakura.ne.jp/critical/src/obama-tpj-20090405-77.html>
バラク・オバマ米大統領ノーベル平和賞受賞演説 2009年12月10日 オスロ (ノーベル賞公式ウェブサイト:英語)
<http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/peace/laureates/2009/obama-lecture_en.html>
(上記邦訳、京都新聞HP) <http://www.kyoto-np.co.jp/obama/nobel.html>
バラク・オバマ米大統領広島演説 2016年5月27日 (ホワイトハウス ウェブサイト:英語)
<https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2016/05/27/remarks-president-obama-and-prime-minister-abe-japan-hiroshima-peace>
(上記邦訳、中日新聞HP) <http://www.chunichi.co.jp/ee/feature/obama/obama_speech_in_hiroshima.html>
(同日安倍総理発言、首相官邸HP) <http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2016/0527hiroshima.html>
安倍総理 米国(真珠湾)訪問 日米両首脳によるステートメント 2016年12月27日 (データベース「世界と日本」HP)
<https://worldjpn.grips.ac.jp/documents/texts/exdpm/20161227.S1J.html>
(同英訳及びバラク・オバマ米大統領演説 2016年12月27日 (ホワイトハウス ウェブサイト:英語)
<https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2016/12/28/remarks-president-obama-and-prime-minister-abe-japan-pearl-harbor>
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平成30年8月15日 天皇陛下の全国戦没者追悼式でのおことば
本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来既に73年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。
戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ,ここに過去を顧み,深い反省とともに,今後,戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
Address by His Majesty the Emperor on the Occasion of the Memorial Ceremony for the War Dead (August 15, 2018)
On this Day to Commemorate the War Dead and Pray for Peace, my thoughts are with the numerous people who lost their precious lives in the last war and their bereaved families, as I attend this Memorial Ceremony for the War Dead with a deep and renewed sense of sorrow.
Seventy-three years have already passed since the end of the war, and our country today enjoys peace and prosperity, thanks to the ceaseless effort made by the people of Japan, but when I look back on the sufferings and tribulations of the past, I cannot help but be overcome with deep emotion.
Looking back on the long period of past-war peace, reflecting on our past and bearing in mind the feelings of deep remorse, I earnestly hope that the ravages of war will never be repeated. Together with all of our people, I now pay my heartfelt tribute to all those who lost their lives in the war, both on the battlefields and elsewhere, and pray for world peace and for the continuing development of our country. 《宮内庁ホームページ<http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/30#130>から》
平成30年12月20日 天皇陛下お誕生日に際し 天皇陛下の記者会見 から
第二次世界大戦後の国際社会は,東西の冷戦構造の下にありましたが,平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ,冷戦は終焉えんを迎え,これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは,必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し,また,テロにより多くの犠牲者が生まれ,さらには,多数の難民が苦難の日々を送っていることに,心が痛みます。
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え,昭和27年,18歳の時に成年式,次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し,日本は国際社会への復帰を遂げ,次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年,英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し,その前後,半年余りにわたり諸外国を訪問しました。それから65年の歳月が流れ,国民皆の努力によって,我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め,平和と繁栄を築いてきました。昭和28年に奄美群島の復帰が,昭和43年に小笠原諸島の復帰が,そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に11回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。
そうした中で平成の時代に入り,戦後50年,60年,70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵しています。
そして,戦後60年にサイパン島を,戦後70年にパラオのペリリュー島を,更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。
from Press Conference on the occasion of His Majesty's Birthday (2018)
The international community after World War II was defined by an East-West Cold War structure, but when the Berlin Wall came down in the fall of the first year of Heisei (1989), marking the end of the Cold War, there were hopes that the world might now welcome a time of peace. However, subsequent global developments have not necessarily gone in the direction that we desired. It pains my heart that ethnic disputes and religious conflicts have occurred, numerous lives have been lost to acts of terrorism, and a large number of refugees are still enduring lives of hardship today throughout the world.
Those were the conditions that Japan faced as we walked the path in the post-war years. I was 11 years old when the war ended, and in 1952, at the age of 18, my Coming of Age Ceremony was carried out followed by the ceremony of Investiture as Crown Prince. That same year the San Francisco Peace Treaty was formally implemented, marking Japan’s return to the international community, and I remember welcoming the foreign ambassadors and ministers newly arriving in Japan one after another. The following year I attended the Coronation of Her Majesty Queen Elizabeth II of the United Kingdom, and I spent about six months before and after the Coronation visiting many countries. In the 65 years since then, thanks to the efforts made by the people of Japan, our country has taken steady steps forward in the world and has come to enjoy peace and prosperity. In 1953, the Amami Islands were returned to Japan, followed by the Ogasawara Islands in 1968, and Okinawa in 1972. Okinawa has experienced a long history of hardships, including what happened there during the war. I have visited the prefecture 11 times with the Empress, starting with the visits that I made in my days as Crown Prince, and have studied the history and culture of Okinawa. We are committed to continue to care for the sacrifices that the people of Okinawa have endured over the years, and that commitment will remain unchanged in the future.
Japan then entered the Heisei Era, during which we reached the milestone years of the 50th, 60th, and 70th anniversaries of the end of World War II. I have believed it is important not to forget that countless lives were lost in World War II and that the peace and prosperity of post-war Japan was built upon the numerous sacrifices and tireless efforts made by the Japanese people, and to pass on this history accurately to those born after the war. It gives me deep comfort that the Heisei Era is coming to an end, free of war in Japan.
I shall not forget the trips that the Empress and I made to Saipan for the 60th anniversary of the end of the war, to Peleliu Island in Palau for the 70th anniversary, and to Caliraya in the Philippines the following year, to pay our respects to those who lost their lives in the war. I am grateful to each of those countries for welcoming us with warm hospitality. 《宮内庁ホームページ<http://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/25>から》
皇室のご活動
<http://www.kunaicho.go.jp/activity/>
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2005.8.14 初アップ、その後も少しずつ手直しを続けています。
開設者より
私のホームページに訪れてくださり、ありがとうございました。
「我が家の戦争犠牲者研究」のファイルを載せてからは、閲覧者の方々から、このファイルについての感想や問い合わせが多く届くようになりました。カウンターを設置したところ、私の他のファイルと比べて群を抜いて多く閲覧されているということを知りました。この問題について、多くの方々が関心を持っておられることを実感した次第です。
時々、掲載の資料を掘り下げた内容の質問や、関連の資料の有無についての問い合わせが届きますが、私はこの問題についての研究者ではありません。このホームページは、私の趣味の範囲で、個人的な関心に基づいて、素人が作成しているものですので、よって皆様の専門的な求めに応じられる力量はないわけです。各資料については、図書館にあるものなど、素人の私が容易に接することができたものを、著作権等に注意を払って引用させていただいたものです。
掲載の内容をきっかけに、皆様が更なる高い関心を持たれ、皆様なりに学習を深めてくださることを願っています。併せて、閲覧されての感想や、記載データの誤りの指摘などについては歓迎いたしますので、お伝えいただけることを願っています。今後ともよろしくお願いします。
このファイルを2005年に掲載して以来、多くの方々から様々な反応があり、嬉しく思っています。記事等の引用について、当初は書籍や雑誌等からの引用に加え、新聞記事からの引用も載せていたのですが、新聞記事の引用については新聞協会の見解「ネットワーク上の著作権について」(1997.11.6 第564回編集委員会)により厳格な取り決めがあり、新聞記事からの引用の部分についてはすべて削除しました。無配意のまま記事を引用していたことをお詫びいたします。 |
先の大戦に思う
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我が家の戦争犠牲者研究
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TR7
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